「だいこん」と言ったね~
朝枝 泰善
広島・浄土寺住職

すべて子ども中心
如来さまのおはたらきを「南無阿弥陀仏のおよび声」と聞かせていただきます。
原口針水(しんすい)和上は、
われとなえ
われ聞くなれど
南無阿弥陀
つれてゆくぞの
親のよび声
とお味わいくださいました。
阿弥陀さまは私の親と名乗ってくださり、いつもいつも私と一緒にいてくださるのです。
阿弥陀さまが私の親と名乗ってくださることは、どういうことなのでしょう。この関係は私たちの身の回りにも味わえることがあります。
赤ちゃんが泣いている声を聞いて、親が急いでわが子のもとに行き、「お母さんよ」と声をかけながら抱きかかえる姿がそれでしょう。子どもがはげしく泣いているのに、何もしない親はいません。子を抱きかかえ、「大丈夫よ、お母さんがいるからね」と、子どもに安心を与えながらあやします。わが子の声を聞き、遠くからでも「お母さんはここにいるよ」と子どもに聞こえるように大きな声で伝えるのです。
私事ですが、かつてわが子の誕生の時、心躍る出あいの喜びを感じつつも、必ず別れていく寂しさとつらさを少し感じたことを思い出します。別れる時が必ずくるというつらさがあるなら出あわなければよいのでしょうか。いいえ、出あいたくて出あえたわが子です。その子を抱きかかえ「お父さんだよ」と何度呼んだことでしょう。
妻が子どもを抱き「お母さんよ」と、そして私の両親が「おじいちゃんよ」「おばあちゃんよ」と呼んでいるのは、自分の名前ではなくて子どもにとっての呼び名なのでしょう。その声も、ちょうど子どもに届くほどの大きさで、柔らかく和ませるような優しい声で呼んでいるのです。
私の母が孫に「お父さんもここにいるよ。お母さんもここにいるよ」と、自分の親ではないのに父母と言い、私も「お母さんもいるよ」と自分の母親ではないのに母と言います。わかりにくい話ですが、すべて子ども中心ということなんです。
私の母が孫に「おばあちゃんよ」と10回言うと、私はそれ以上に「お父さんだよ」と呼びました(「お父さん」と呼んでほしい負けず嫌いの父心でした)。
六字以外にはない
そんなある日、ついに子どもがはっきりとしゃべったのです。それがなんと「だいこん」だったのです。妻と私は大笑いしました。初めてしゃべる言葉は何だろうと期待していたのに、「だいこん」だったのです。すぐにその子を抱きかかえ「だいこんと言ったね~」と大喜びしました。
期待と違う言葉でしたが、いいんです。「お父さん」と10回呼んでも20回呼んでもこの子に届いたのは、近所の方が「たくさんできたのでお供えしてください」と持ってきてくださった「だいこん」という声だったのでしょう。だからといって「だいこん」と言ったわが子を嫌いになったりはしません。
この子に届いた声のように、私に届けと、仏さまが南無阿弥陀仏の六字に仕上げ、み声の仏さまと現れていつでもどこでも誰にでも称えられる仏さまなのだと知らせていただきました。
私が称えるみ名、私が聞くみ名は「南無阿弥陀仏」という、「必ず連れて行くから安心して今生(こんじょう)を生き抜いておくれ」という親の願いです。その願いを、ただ疑いなく信じ、親の名をよばせていただくのです。
蓮如上人は「御文章」の無上甚深(じんじん)章に「南無阿弥陀仏の名号は、わずか六字ですから、それほどのはたらきがあるとは思えませんが、この六字の名号にはこの上ない深い功徳や利益(りやく)があり、その広大なことははかり知れません。信心を得るということも、この六字にあるのであり、それ以外にあるわけではありません。
信心とは、六字の名号のいわれをよく心得ることをいうのです。この六字のいわれを心得たものを他力の信心を得た人というのです。南無阿弥陀仏の六字には、このようなすぐれたいわれがあるのですから、疑いなく深く信じるべきです」(取意)とお知らせくださっています。
(本願寺新報 2011年07月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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