読むお坊さんのお話

「なもあみだぶつ」は不思議な言葉

塚村 真美(つかむら まみ)

奈良・正覚寺衆徒

もしも私が・・・

 ある日、私が帰ってこなくなったら、探したのに見つからなかったら、お浄土に行ったんだ、と思ってください。

 あるいは、どこかに転がっていたら、ご迷惑をおかけしますが、自分ではどうにもできないので、葬ってくださるようお願いします。

 お骨がないときは、お墓に入れてやれなくてかわいそう、と思われるかもしれませんが、お墓に入ろうと思って生きてきたわけではありませんから、どうぞ気になさらないでください。もしくは、私を葬(ほうむ)ってくださることになる方、お世話になります、本当にありがとうございます。

 どんな最期を迎えるか誰もわかりません。が、問題は死にざまではなく、生きざまだ、とお聞かせいただいています。苦しんだとか楽だったとか、私が死んでも、そんなことは話題にしないでほしいです。できれば、私の良いところを思い出して、お褒(ほ)めいただければ幸いです。

 もし、ありがたいことに葬式をしてやろうということになり、でもなんにもなしじゃあ、と残念に思われたならば、「南無阿弥陀仏」と書いた紙を張って、手を合わせ、「なもあみだぶつ」と称えてください。

 紙がなければ、「なもあみだぶつ」の声だけで、もう本当にうれしいです。

 その声の中に私がいます。

 驚かないでください。私と言っても、私はもういません。それは仏さまという存在です。

 「なもあみだぶつ」は不思議な言葉で、その声は、称えた人の声であると同時に、仏さまの声でもあります。私も、死んだら即!仏さまの仲間に入れていただくので、「なもあみだぶつ」の中に私の声がする、と申しあげました。

 そんなことはない、これは自分の声で、誰の声でもない、と思われますか?自分ひとりで生まれてきたわけでもなければ、自分ひとりで育ってきたわけでもありません。声だってそうです。ざっくりと申せば、おかげさま、で生きているのです。この私も、おかげさまのかたまりなのです。

おまかせします

 さて、不思議な言葉「なもあみだぶつ」の意味はというと、こちらからいえば、「おまかせします、阿弥陀さま」ですが、それは阿弥陀さまからの「なもあみだぶつ」に応えた言葉です。阿弥陀さまからはこうおっしゃっています。「まかせなはれ」。すみません、関西人の私にはそう響きます。「まかしんしゃい」とか「まかしなされ」かもしれません。

 ともかく、私はそう言ってもらったので、「ありがとう、阿弥陀さま」と、私の全部をおまかせしているわけです。いつでもどこでも、阿弥陀さまは私を見まもっていてくださいます。そして、いのちが終わるその時には、阿弥陀さまの国、さとりの世界に私を生まれさせ、仏さまにしてくださるのです。

 仏さまになったならば、今度は生きている人々を、見まもっていきます。だから、行ったといっても、実はすぐに帰ってきているのです。

 帰ってきたら、阿弥陀さまと同じようにはたらきます。阿弥陀さまのはたらきとはどんなものかというと、生きている人をともかく尊敬してくださるのです。悲しんでいる人がいたら、とことん尊敬してくださり、涙する人がいたら、とことん尊敬してくださる。下を向いていても、尊敬してくださっている。前を向けなくても、上を向けなくても、とことん尊敬してくださっているから、安心してうつむいていていいのです。

 もし、身近に、小さい人がいて、父親や母親がいなくなってしまった人がいたら、不思議な言葉「なもあみだぶつ」を称えてごらん、聞いてごらん、と声をかけてください。それは、ののさまの声だよ、そして、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんの声でもあるんだよ、と。言葉の意味を問われたら、「ありがとう」ということだよ、とお話しください。

 人の言葉は、時にわずらわしいことがあります。意味はわからなくても、慈しみの声を響かせて、そこに光あることを聞いていってもらいたい、と願います。

(本願寺新報 2011年05月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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