読むお坊さんのお話

無縁社会と仏教の縁起

速水 昭隆(はやみ しょうりゅう)

滋賀・浄通寺住職

病院で迎える「死」

 在宅で亡くなられる数と、病院で亡くなられる数は15年ぐらい前から完全に逆転し、今では80パーセント以上が病院で死を迎えられるそうです。

 私は43歳ですが、祖母は私が9歳の時に、日に日に老いながら、自宅でゆっくりと「死」を迎えました。家族や親類、お医者さんに見守られながらの最期でした。近所の人もそういう形で亡くなられることが多かったようです。

 お別れすることの寂しさは深く感じていなかった記憶がありますが、「死」が眼の前にある時の、あの空気、人々の気配、感情、緊迫感は、今でもはっきりと覚えています。「死」というものがどういうものかを知識としてではなく、経験として触れ、「命」を少し学んだ気がしています。

 家には、3世代が住み、タテの世代間で伝わる「老」「病」「死」の姿を間近に学ぶことができました。集落共同体として、互いに関(かか)わり合いながら地域の人々が生活をしていました。

 最近、にわかに「無縁社会」と言われ始めました。しかし、いきなりそうなるわけでもなく、実はその流れは、2世代だけで住み始めることが増えだした、20年以上も前から起こっていたのではないかと思います。身元不明や引き取り手のない「無縁死」は年間3万2千人もあり、自殺で亡くなる人は3万人を超え、自殺未遂の数はその5倍とも言われています。理解、想像し難い社会が今現在あります。

 そもそも縁のある人々、家族や親類、地域の人々などは、互いに迷惑をかけたり、助け合ったりという関係のものであったと思います。共同体意識があるうちはまだ残っていましたが、いつからか、葬式での香典を断ったり、身内のみで結婚式だけを済ませたりと、付き合いを狭めることが増えてきました。

 冠婚葬祭だけでなく、多面にわたり、「付き合いが面倒だから」「迷惑をかけたくないから」という言葉が聞こえだしました。世代間のタテの関係も、同世代のヨコの関係も薄くなりました。そうせざるを得ないという事情があるかもしれませんが、一方でそうすることの気楽さを選んだのかもしれません。そこに大きな間違いの始まりがあったと思います。

できることから始める

 仏教は「縁起」ということを説きます。

 「すべてのものは深く関わりあっており、単独で存在するものはない」という教えです。

 それは、ある方の言葉で例えるなら、「一枚の紙に、空を流れる雲を観(み)る」ということです。

 雲があることによって、雨が降ります。雨が降ることによって樹木は水分を得て育ちます。そして育った樹木から紙の原材料であるパルプをとることができ、紙が出来上がります。

 紙からは、直接雲は観えませんが、雲がなければこの紙は存在しないのです。直接観えるからとか、観えないからとかではなく、すべてのものはこのように、関わりあって存在している、網の目のように世界はつながっているということ、それが「縁起」です。

 よく、「知り合いの知り合いが知り合いだった、世の中狭いな」ということを言いますが、人間の関係も、人間の行いも、この世のものすべてが、どこかで縁によって結ばれつながっている、それが「縁起」です。

 直接観えないもの(雲)を、いかに見えているもの(紙)から観えるようになるか、観える心を育てるかが、仏教を学んでいくことであり、仏の願いに生きることです。

 それはまさしく、私の「命」は、多くの縁において成り立ち、「生きている」のではなく、「生かされている」と思い当たることです。同時に私の「命」は、他の「命」を「生かしている」存在なのです。そこには、重みもあり、責任もあります。

宮沢賢治が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言ったことは、「縁起」と深く関わっており、私たちに教えてくれていると思います。

 良き事にしろ、悪しき事にしろ、一人一人がつくってきた社会が現在あるわけです。そしてまた多くの未来の縁をつくっています。だからこそ変えうる事もできるはずです。今すぐ自分ができること、それを考え行動にうつすことから始めることが大切だと思います。

(本願寺新報 2010年12月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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