読むお坊さんのお話

聞いていてよかった

業田 昭映(なりた しょうえい)

長野・普願寺衆徒

このいのちに感謝

 あるお宅のご法事にうかがった時のことです。おつとめの前にお茶をいただいていますと、70代後半のKさんに「暑いですが、お体は大丈夫ですか?」と、お参りに来られた方々が口々に声を掛けておられました。私は「ご病気なのかな」と思っていました。

 法要が終わり、お斎(とき)の席に座りましたら、先ほどのKさんが私の隣りに座られましたので、「どこか具合がお悪いのですか」とおたずねしました。

 するとKさんは「先日、膵臓(すいぞう)がんの宣告を受けたんだ」とおっしゃったのです。そして、

 「だけどなぁ若さん、俺(おれ)が昔お寺の壮年会の役をしていた時、研修会でのお話や、お彼岸や常例法座でお話を聞いていたから、がんの宣告を受けた時はショックだったけど、すぐに、『あぁ阿弥陀さんにおまかせだな』と思えたんだ。

 今になって思うと、阿弥陀さんのお話を聞かせていただいていて本当に良かったなぁと思うよ。聞いていなかったらこんなに落ち着いてなんかいられなかったかも知れない。

 あとどれだけ生きられるかわからないけど、いただいた命、感謝の気持ちで最後まで生かさせてもらおうと思っている」

与えることを第一に

 私たちのみ教えは「阿弥陀さまの願いを聞かせていただく教え」です。阿弥陀さまは、悩み苦しみ悲しんでいる私を何とかしたいと、いつもはたらきかけてくださっています。そんな阿弥陀さまが私たちの苦悩を解決するために、断食をしなさいとか、滝に打たれなさいなどとはおっしゃいません。

 親鸞聖人は『正像末和讃』に、

  如来の作願(さがん)をたづぬれば
  苦悩の有情(うじょう)をすてずして
  回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
  大悲心をば成就(じょうじゅ)せり
   (註釈版聖典606ページ)

 とお示しくださいます。

 なぜ阿弥陀さまが苦悩の私を救おうと願いをたててくださったのかと尋ねれば、悩み苦しみ悲しんで不安の中にある私を捨てることはできないと、ただ私に仏の功徳を与えることを第一に考えて、南無阿弥陀仏という六字のお名号で私の苦悩を解き放つという大きな慈悲を完成されたのだとおっしゃいます。

 阿弥陀さまは私の苦悩を何とかしたいという願いを「南無阿弥陀仏」のお念仏に込めて、私に届けてくださっているのです。いつでも・どこでも・誰でも、称(とな)え易(やす)いように、南無阿弥陀仏というみ名となって、すでに私に寄り添ってくださっているのです。

自分勝手な私たち

 でも、南無阿弥陀仏とお念仏を称えたからといって、病気が治るとか、事故に遭わないということではありません。

 私たちは勝手なもので、できれば自分に都合の良いことばかり起きてほしい、都合の悪いことはなるべく来ないでほしいと思っています。しかし、実際の生活では、自分に都合の良いことばかりではありません。むしろその逆です。

 お念仏を称えさせていただく私に阿弥陀さまは、「あなたの喜びは私の喜びであり、あなたの苦しみは私の苦しみ。私も背負うぞ、あなたの悲しみを、私も共に悲しもう」といつも寄り添ってくださっているのです。

 都合の良い出来事にはありがとうの感謝ですが、都合の悪い出来事にも感謝です。なぜならその都合の悪い出来事は阿弥陀さまと共にその出来事を乗り越えさせていただく機会であり、阿弥陀さまのお慈悲をより一層深く受け止めさせていただき、私をお育ていただくご縁にほかならないからです。

 いつ命尽きるかわからない不安の中でKさんは、仏法を聴聞されたお蔭(かげ)で、この世の命尽きてもそれが終わりではなく、無量光明土に往生し無量の寿(いのち)をいただくということ、そしていつも阿弥陀さまが寄り添ってくださっていることを感じておられるのでしょう。

 膵臓がんの宣告を受けられたKさんの落ち着いた所作・言葉と、日々感謝の気持ちで生きておられる姿を目の当たりにしたとき、「あぁ、Kさんはまさに阿弥陀さまと共におられるのだなぁ、阿弥陀さまの願いがここに届いておられるのだなぁ」と思わせていただいたことでした。

(本願寺新報 2010年11月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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