読むお坊さんのお話

〝いのち〟は平等やもんな~

玉池 弦(たまいけ ゆずる)

富山・浄蓮寺住職

恥ずかしくて言えない

 私の父は、1990(平成2)年6月、56歳で往生いたしました。早いもので20年の月日が経ち、現在、四女の私が住職にならせていただいています。

 私が小学1年生だったある日、父と二人でお風呂に入ることになりました。

 「おい、一緒にお風呂入らんか」
 「え~っ、お父さん一人で入れば~」
 「そい事言わんと入らんかよ」
 「ん?~~~うん!」

 私は、なんだか緊張しながらお風呂に入りました。その頃の父は毎日のように住職として法務や、布教使としてご法座、講演会に出かけたりして、ほとんど家にはいなかったからです。しかしその姿が、私にとって自慢の父であり、住職でありました。

 戸惑いながらも一緒に、お風呂に入っていると、父が私に、「弦(ゆずる)は、家族の中で一番好きな人は誰け?」と聞きました。

 私はしばらくして、「おばあちゃん!」と答えました。
すると、「ほ~ん、おばあちゃんか。次は?」
「お母さん!」
「ほぉ~ん、次は?」
「上のお姉ちゃん!」
「ふぅ~ん、次は?」
「下のお姉ちゃん!」
「おっ、そん中にお父さん入っとらんがか?」
「なぁ~ん、ちゃんとお父さんも入っとるちゃ」
「で、お父さんは一番最後なんか?」
「違うちゃ!一番最後やってわけじゃない!」
私は「一番好きながはお父さん!」と言いたいのに・・・なにか恥ずかしくて言えませんでした。
私は「家族で一番誰が好きかって聞かれたって、順番なんかつけられん。み~んな大好き」と答えました。
すると父は、「そうかそうか、順番はつけられないか。そっかそっか"いのち"は平等やもんな~」と言いました。
私は「"いのち"?"平等"?何が?どういう意味?」と、たずねていたことを今でも覚えています。

お慈悲の温もりが

 仏教では、生きとし生けるものすべての"いのち"は「平等」であると教えてくださいます。男女や老少の違い、姿形は違っていても生あるものは、すべて、かけがえのない尊い"いのち"なのです。

 阿弥陀さまは、すべての"いのち"を我が子とおっしゃいます。阿弥陀さまを「親さま」といただけば、私たちは、みんな兄弟姉妹(きょうだい)ということになります。しかし、阿弥陀さまは、私一人に向かっては、「一子(いっし)(ひとり子)」とおっしゃいます。それは、どのようなお心から、そうおっしゃるのでしょうか。

 親鸞聖人は、
  平等心(びょうどうしん)をうるときを
  一子地(いっしじ)となづけたり
  一子地は仏性(ぶっしょう)なり
  安養(あんにょう)にいたりてさとるべし
   (註釈版聖典573ページ)

と、お示しくださいました。

 阿弥陀さまは「みんな、私の大切な子どもたちですよ。でも私は、あなたたちを比べたり、順番をつけたりしませんよ。あなたの"いのち"は、この世にたった一つしかありません。あなたの"いのち"は、あなたにしか生きられません。だから、あなたは、私のかけがえのない『ひとり子』ですよ」と呼びかけ、「ひとり子のあなたを、私はすでに摂(おさ)め取っていますよ。必ずお浄土に参らせて、素晴らしい仏さまに生まれさせますよ」とお誓いくださっておられるのでした。阿弥陀さまは、私たち一人ひとりの"いのち"を、隔てない"無量の光(ひかり)"と、限りない"無量の寿(いのち)"の中に育んでいてくださるのです。

 阿弥陀さまは「平等心」というお心の故に、すべてが「我が子」でありながら、私を「ひとり子」として見ていてくださるのです。「ひとり子」だから、順番はつけられないのです。

 「そっかそっか"いのち"は平等やもんな~」という父の言葉を懐かしく思い出しながら、「私も父と同じ住職かぁ・・・。私も父も、阿弥陀さまから大切に思われている『ひとり子』なんだなぁ~!」と、ひとり呟(つぶや)いていたお風呂の中は、お慈悲のような温もりがありました。

(本願寺新報 2010年11月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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