読むお坊さんのお話

私を照らすはたらき

楠 眞(くすのき まこと)

岐阜・縁覚寺住職

頑張ってきたけれど

 季節の移ろいの中、懐かしい知人の訪問を受けました。知り合ったのは、彼が学生の頃なのですが、卒業後どんな生活をしていたのか、知る由(よし)もありませんでした。訪問の数日前に突然の電話で、「いろいろとお話したい事があって・・・、聞いていただけますか?」とのことでした。

 私は「話を聴くだけならいいですよ。でも、アドバイスを求められると・・・、ちょっと困るかな?」と応えておいたのです。

 彼はやって来るなり、家族のことを語り始めました。親ごさんとの関係、子どもさんとの関係、そして事業を起こして頑張ってきたこと、その過程で大病を患ったこと、病気を通して知り合った人たちのこと、そして最後に夫婦関係のことを語ってくれました。それは一気にあふれ出すような語り口で、瞬く間に3時間近くが過ぎました。まるで彼の卒業後の人生物語のすべてのようでした。

 彼は学生時代から、体育会系で頑張り屋さんでした。そんな性格と姿勢は少しも変わっていなくて、話を聴いていて相変わらずパワフルだなと感じて、そのことを彼に伝えると、「そうですよ。ポジティブ・シンキング(肯定的発想)とプラス思考が私のすべてだと思って頑張ってきたんですから」と言うのです。そして続けてこうも言うのでした。

 「でも最近、このポジティブ・シンキングとプラス思考、ちょっと違うんじゃないかと感じてるんです」

 私が「それって、どういうこと?」と尋ねると、「家の外で出会う人には笑顔をふりまいて、一緒に頑張りましょうねっ て。でも家族に対しては、眼をつり上げて、私がこんなに頑張ってるのに、どうしてもっと頑張れないのか・・・」と。

 親ごさんにも、子どもさんにも、連れ合いさんにも、そのように要求する自分がいて、そういう自分が「醜(みにく)くて、嫌(いや)なんです」と言うのです。「私って、醜いのです。どうしたらいいですか?」というのが、私に対する彼の問いかけでした。

人と人との関係こそ

 私自身が日頃から感じていることですが、人生で一番つらいことは人間関係の上に起こるということ。逆に、人生で一番うれしいことも、やはり人との関係性の上に起こるということです。

 例えば、素晴らしい景色に出合ったときの感動。美しいメロディーや自分を励ましてくれる歌を耳にしたときの感動。いかにも元気をもらえそうなおいしいものを口にしたときの感動。これらは、それぞれに素晴らしい体験ではあるのですが、やはり人との関係の中で感じる親密さのこと、いわゆる心底理解し合えたときの感覚、何かを共に感じ合っていることなど、これらは他とは比較にもならないのではないでしょうか。あなたと出会えて本当によかったという、あの感覚です。そこには、人として感じる絶対の喜びと感謝があるように思うのです。

 訪ねてきた彼は、それこそ人生に苦悶(くもん)しながらも、同時に生活の中で味わった喜びもたくさん語ってくれました。そして、帰り際になってから、いのちについてのことも語ってくれたのです。

 「私はずっと過去にさかのぼって、ご先祖さまや今まで出会った人や、いろんな人に支えられて今の私があるんですよね。感謝しないといけないなと思うんです」

 「いのちの連鎖のこと?」と尋ねると、続けてこうも言いました。

 「私がいろんないのちに支えられているんだということを、子どもたちや、出会ういろんな人にも伝えていきたいんです」

 実際に、そのような絵本も見つけたのだというのです。

 彼が帰った後、私なりに思いをめぐらせました。「醜い私」を自覚させたもの、同時に一連(ひとつら)なりのいのちを自覚させているものは何か?

 それは、真実というものが、今ここに私に向かって、はたらき続けているという事実でした。そうであればこそ、苦悩しながらも生きていける。すべてのいのちを、照らし護(まも)り続けるという真実のはたらきによって、私自身の人生への信頼と安堵(ど)が成り立っているということでした。

 彼の訪問によって、そのことにあらためて気づかせていただき、私に感謝が生まれました。

(本願寺新報 2010年10月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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