〝シュウカツ〟
沖井 智子
福島・本光寺副住職

近くの座席の会話が
「最近のシュウカツって、大変ねえ」
「ほんとほんと、今じゃなくってよかった!」
新幹線で移動中に、通路をはさんだ座席から聞こえてきた会話です。ふと、その席を見ると、二十七、八歳の同級生同士らしい女性たちが話していました。
「ん?シュウカツってなに」と思っていたら、就職活動のことなんですね。何でも略してしまうんだなあと思って聞いていたら(いえいえ、決して聞こうと思って聞き耳を立てたわけではなく、ついつい聞こえてきてしまったのです)彼女たちも就活とやらを、したようなのです。
「就活をすると、自分が見えてくるよね」
「これでもか、これでもかって落とされて、自分のどこが悪いのかって、さんざん悩んで・・・」
「そうそう、ほんと自分が見えてくるよね。それで、がく然としたこともあるし、へえ~、私ってこんなところもあるんだって思ったり・・・」
「そうそう、周りの人がいろいろ言ってくれたり・・・。うるさいって感じたけどね。うふふ」
「とっても嫌だったけど、終わってみればありがたい期間だったわ!」
そろそろ、定年後の生活は・・・などと考えるようになってきている私たちの頃は、そんな苦労はなかったなあ。いい時代だったんだなあ。希望するところに大抵は就職できましたもの。
自分が見えてくる
会話は、続きます。
「でもさ、一人では何にもできないんだよね。今までだって、みんなに協力してもらって、いろんなことしてきてるんだもんね。今の私があるのは、あのサークル活動で培った根性や、この勉強で身につけた知識の上に今の考え方ができるとか・・・。ほんと、みんなにお世話になってるんだよね。支えられてここまで来たんだよねえ」
自分が見えてくる、って、とっても大事なことですよね。この二人の会話を聞いていて、「いい経験をしたなあ」とつくづく思うのです。そして、そんな彼女たちを見て、私はちょっと(いや、かなりかな?)先輩ぶって「よくぞ気付いてくれました」と思うのです。「自分を見る」ということは、周りの人たちに支えられていることがしっかりと見えてきて感じたはずです。
たとえば、就活中に周りでいろいろ言っていた人。活動に必死で、それしか見えていなかった彼女たちには、「あ~、うるさい。ほっといて!」と思われたことでしょう。でも、自分が見えてきた今は、それが私を心配してくれている表れであることが身にしみて感じられたことでしょう。ついつい、自分は一人で努力して自分の力で、自分を築き上げたように思ってしまうんですよね。
お育ていただこう
「み光の中に生きる」「お育ていただく」とよく言います。
阿弥陀さまの「ひかり」と、周りの方々に支えられているということは、一見何の関係もないように思います。でも、一つ一つのことが別々の所で起こっていたことなのでしょうか?
いいえ、そうではありません。阿弥陀さまの大きな大きな光に照らされた中で起こっていたことなのです。彼女たちは、照らされていたからこそ、自分の姿がうつり、しっかりと自分を見ることができたのでしょう。うつった姿を、しっかりと受けとめることができたのでしょう。
阿弥陀さまは、私たちをいつも照らしてくださっています。その光によって、気付かせていただけたのです。ありがたいなあ、うれしいなと思える瞬間です。だから、こころからのお念仏が、出てくるんですよね。
おいしい果物は、太陽の光を浴びて光合成をおこない、地中にはった根っこからも栄養を摂取し、お世話してくださる方があり、はじめて美味しい実になります。そして、いろんな人々の手が掛けられ、私たちの口に届きます。
就活で、いろいろ感じ取った彼女たち同様、私たちも「み光の中に生き」「お育ていただく」毎日をおくっているんですね。この就活のお話を、ちょっと小耳にはさんだおかげで、私もまた自分を見つめなおすことができました。
今日も、このおかげさまの気持ちと共に、「み光の中、お育ていただこう」と思います。
(本願寺新報 2010年06月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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