お母さんの〝さん〟
北嶋 文雄
福岡・光蓮寺衆徒

親心のはたらく証拠
親の名告(なの)りは、実に味わい深いものです。
というのも、母親は子どもに「おかあさんよ」と名告りますが、「おかあさん」の「さん」という言葉は、本来よぶ側が用意するものです。それを名告る側が用意したら、おかしなことになります。たとえば、「私は北嶋さんです」と名告ったら、おかしいのと同じです。
けれども、母親は「おかあさん」と名告ります。一体、「おかあさん」という名告りは何なのでしょうか。
それは、母親は最初から子どもの立場に立って、名告っているのです。
「さん」という言葉は、よぶ側の子どもが用意しなければなりません。でも、それができない子どもに先立って、「おかあさん」と名告っているのです。
つまり、その名告りには、「このように、よんでおくれ。私を頼っておくれ。いつでもどこでも一緒だよ」という親心があるのです。ですから親の名告りは、そのままが親心いっぱいのよびかけなのです。
そのよびかけを聞いて、子どもは安心します。その安心しているままが、親を頼っているすがたです。その頼っているすがたが、親心のはたらいている証拠です。実に、親を頼る心まで、親が与えてくれるのでした。
南無の心もご用意に
このように、「おかあさん」という名告りは、最初から子どものためであったのです。
ところで、南無阿弥陀仏というみ名は、最初から私たちのための名告りであったことを、親鸞聖人は「回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて」と示されました。
阿弥陀さまは、私たちに南無阿弥陀仏と名告られたのですが、南無は「おまかせします」という意味ですから、本来は私たちが南無の心を用意しなければなりません。
けれども、南無阿弥陀仏の南無は、阿弥陀さまがご用意くださっています。最初から私たちの立場に立って、名告られたのです。まかせる心を起こすことができない私たちのために、阿弥陀さまが先立って南無阿弥陀仏と名告られたのです。つまり、その名告りには、「このように、よんでおくれ。私にまかせておくれ。いつでもどこでも一緒だよ」というお慈悲があるのです。ですから南無阿弥陀仏は、そのままがお慈悲いっぱいのよびかけなのです。
そのよびかけを聞いて、安心します。その安心しているままが、阿弥陀さまにまかせているすがたです。そのまかせているすがたが、お慈悲のはたらいている証拠です。実に、まかせる心まで、阿弥陀さまが与えてくださるのでした。
このように、南無阿弥陀仏という名告りは、最初から私たちのためであったのです。
苦悩する者のために
阿弥陀さまは、私たちに南無阿弥陀仏とよびかけずにはおれませんでした。なぜなら、阿弥陀さまの眼に映った私たちが、「苦悩の有情(うじょう)」であったからです。心弱く、愚かに、涙しながらしか生きていくことのできない悲しい存在・・・それが阿弥陀さまがご覧になった私たちの姿でした。
誠に、涙しながらしか生きていけないのが、私たちです。「なぜ、自分だけがこんな目に遭わねばならないのか・・・」と、暗い気持ちになることもあります。「誰も私のことをわかってくれない・・・」と、愚痴をこぼすこともあります。「こんなはずじゃなかったのに・・・」と、悲嘆にくれることもあります。
それがどうにもならないことだとわかっていても、弱々しく涙を流しながら生きているのが、私たちの現実です。悲しみに沈む時、苦しみにあえぐ時、心の底は一人ぼっちです。誰も知ることはできません。
そういう中で、たったおひと方、この悲しみ苦しみの境界(きょうがい)をお知りになり、涙されたのが阿弥陀さまでした。そして、「悲しき者よ。どんな時も、あなたを見捨てない」と、南無阿弥陀仏とはたらきかけてくださっていました。
私たちの現実は、苦悩の現実です。しかし、今ここに阿弥陀さまがご一緒です。苦悩する涙の中で、お慈悲の深さが味わえてまいります。
(本願寺新報 2010年06月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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