読むお坊さんのお話

〝戦争は絶対だめ〟

忍関 崇(にんぜき たかし)

北海道・崇徳寺住職

敗戦で生活が一番

 私は中学校の恩師やその仲間たちと一緒に、地元で活躍されている方々のお話を聞く会を月に一度開いています。

 その会の会員にある女性がいます。彼女は81歳の今でも、「下宿のおばさん」として、地元の農業高校に通う女子生徒の世話をしています。毅然(きぜん)とした態度で学生に向き合うその姿には、大人の私たちも大いに学ばされます。

 そんな彼女の原風景には、過酷な戦争体験があります。

 樺太(からふと)(現・サハリン)生まれの彼女は、12歳の時、父親に連れられて満州(現・中国東北部)へと渡りました。一家5人が入植したハルビン近郊の村には、樺太や北海道から新天地を求めて多くの人が移り住んでいました。しかし、その土地は満州を統治する関東軍が中国の農民から略奪したものでした。

 比較的自由な気風の青年学校で学んでいた彼女でしたが、1945(昭和20)年8月15日の日本の敗戦を境に、生活が一変します。ソ連軍の侵攻の知らせに、着の身着のままで村から逃れた一家は、何とか難民収容所にたどり着くことができました。

 けれども、逃げ遅れた人々の中には、ソ連軍や中国人に襲撃されて全滅した開拓団や、強姦(ごうかん)されて殺された女性もいました。息絶え絶えの子どもを連れてこられず置いてきた母親もいました。また、収容所にたどり着けても、そこには食糧も暖房もなく、病気も蔓延(まんえん)して、大勢の人が冬を越せずに亡くなりました。満州で生まれた彼女の幼い妹二人も命を落としました。

先生やお坊さんが・・・

 彼女の一家は翌年、無事帰国することができ、水戸にある父親の実家に世話になりました。ですが、もはや生まれ故郷の樺太に帰ることはできません。長女である彼女は意を決して、一家を連れて北海道へと渡り、町から40キロ離れた山奥の開拓地に入ることになりました。

 政府による「戦後開拓」で引揚者に入植地としてあてがわれたのは、作物のとれないやせた土地が多かったのですが、その土地もご多分にもれず、開墾(かいこん)に適さない荒れた土地でした。それに加えて寒さで作物は育たず、一家は山菜を食べて飢えをしのぎました。

 開拓地で結婚した彼女は、家族を食べさせるためにどんな仕事でもしたそうです。

 けれども、懸命に開墾した土地はダムの底に沈むことが決まり、一家は十数年暮らした開拓地を離れることになりました。町に下りてきてからも彼女は懸命に働き、子どもたちを育てあげました。数年前には40年連れ添った夫に先立たれましたが、今、若い女生徒たちと暮らす彼女は、いつも元気いっぱいで年齢を感じさせません。

 そんな彼女は折に触れて、次のように語ります。

 「私の原点は満州。あのとき、無残に死んでいった人のことを考えると、こんなことは二度とあってはいけないと思う。戦争は絶対にだめ」

 そして、こうおっしゃいます。「学校の先生やお坊さんこそが〝戦争反対!〟といわなければなりません」

非戦平和こそ仏教

 『仏説無量寿経』に「兵戈無用(ひょうがむよう)」〈兵戈用(もち)ゐることなし〉(註釈版聖典73ページ)という言葉があります。

 仏さまが巡り歩く国々には、仏法のはたらきで戦争は起こらないというのです。

 このように非戦・平和こそが仏教の立場といえますが、私たちが、そのような生き方を貫くには、さまざまな困難が伴います。私も仏教徒の一人として非戦・平和の活動にささやかながら取り組んでいますが、周囲の人から批判を受けたりすると落ち込むこともしばしば。そんな頼りない私の背中を彼女の言葉は力強く押してくれたのです。

 また、平和活動に取り組む元日本軍兵士の方には、次のような言葉をいただきました。

 「ご門徒さんを大事に、ゆっくり、ゆっくりと取り組んでいきなさい。君が生きているうちに伝わらなくてもいい。次の世代につながればいいじゃないか」

 このような先輩たちに導かれつつ、その平和への想いを多くの人たちに伝えていくことが自分に課せられた役割だと、今、あらためて思っています。

(本願寺新報 2010年05月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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