最後の言葉「た・・・」
冨井 都美子
京都・善蓮寺住職

タイムマシンのように
「トミちゃん、あんたとしゃべっていたら、あの時、お父さんが何を言いたかったのか・・・やっとわかったわ」
私の父が亡くなって、今年の夏で49年になります。50回忌の相談をしていた時に、急に姉が何やらうなずいていたかと思うと、「わかった」と安堵(あんど)した顔で言ったのです。
父が亡くなったのは、私が10歳の時、8月の早朝でした。父が入院先の病院で死んだと知らせが入り、その後、どうやって病院まで行ったのか・・・。私が病院に着いた頃には、父は遺体安置室に移されていました。眠っているような穏やかな父の顔、高い鼻が印象的でした・・・。
「春休みに新聞社の見学を申し込んでいるので、お母さん、一緒に行ってやってくれませんか?」と、嫁から言われた時、面白そう!!と喜びました。私はわくわくして、孫の保護者として新聞社の見学に行きました。以前に編集の仕事をしていた時から、印刷工程が見たくて仕方がなかったのです。
新聞がどうやって作られるか、新聞社の女性は子どもたちが理解できるよう、やさしく、詳しく説明してくださいました。
印刷現場のドアが開けられた瞬間、インクのにおいと印刷機の騒音で、タイムマシンに乗ったような気分になりました。このにおい、この音・・・いつかどこかで出あったような・・・。
最後に、孫と一緒に「マイ新聞」の紙面をあれこれ言いながら作りました。裏面には、孫が生まれた日の新聞紙面のコピーが用意され、一緒にラミネート加工してくださいました。
新聞社からの帰り道、夕陽に向かって歩いている時に気付きました。孫は10歳、私が父を亡くした時と同じ年齢。そして父は印刷工場をしていた・・・深いご縁で胸がいっぱいになりました。
姉が父亡き後を・・・
父は入院してから、しばらくして、突然言葉が出なくなりました。見舞いに行くと、私の頭を悲しそうな顔をして撫(な)でていました。私が覚えている数少ない父との思い出です。
父はある日、母や姉に、「た・・・」と振り絞るように言ったそうです。
「たばこ?」
父は首を横に振ります。姉は、「た」の付く言葉を考えましたが、わかりません。別の日、いのちの終焉(しゅうえん)を感じた父は姉の手を握って、また「た・・・」と言いますが、伝わりません。そして姉の心の中に大きな謎が残りました。
6人姉弟の次女。家族の難事は、いつもこの姉が助けてくれました。父なき後も、姉の夫とともに、私たち家族のことで奔走し続けてくれました。その一番末っ子の私がもう、60歳を迎えようとしているのです。
父の50回忌を私と相談している時、そんな姉は〝弟、妹のことはもう、心配しなくていいんやなあ〟と安心した途端、父の「た・・・」の言葉が「たのむ」であったと確信できたのでした。
小さな子どもを遺(のこ)していく悲しさ、「どうか頼む」と父は言いたかったに違いありません。姉は、その父の想いを受け継ぎ、成し遂げていたのでした。
人生のすべてが仏縁
時代が濁(にご)り、人々の思いも乱れています。貪欲に私欲を追い求め、すぐに怒り、真実を見失っている私。先にお浄土に生まれた人は、お浄土から私の所に来て、迷いに沈んでいる私に、お釈迦さまのようにはたらき続けてくださっていました。
振り返れば、父の死によって、私は仏縁をいただきました。その後も、思わぬ病に出あい、戸惑うこともしばしばです。老いて寂しさも忍び寄ってきました。だけれども、それらの一つひとつに、阿弥陀さまとの出遇(あ)いを感じます。
それはまるで、氷が解けると水になるように、つらさ、悲しさ、苦しさは、先人の言葉を思い出すきっかけになり、友の有り難さを気付かせてくださるご縁となりました。身近な人々の温かい思いのその向こうに、ほのぼのとした明かりを見ることができた時、お念仏申す私をたくさんの仏さまが見護(まも)ってくださっていたのだと知らされました。人生には何一つ無駄はないのです。
50回忌の法事は、そんなご縁に気付かせていただき〝ありがとう、おかげさま〟と、みんなでお念仏申したいと思います。
(本願寺新報 2010年05月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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