読むお坊さんのお話

満ち足りた人生

加藤 真悟(かとう しんご)

大阪・自然寺住職

こんなはずじゃ・・・

 「疲れがたまって、しんどいから、ちょっと温泉に行ってくる」

 そんな言葉を家族に残して家を出た後、帰ってきて玄関の扉を開けると、思わず私が口にするセリフがあります。

 「あぁ疲れた。やっぱり家が一番」

 そんなふうに思うのなら、そもそも行かなければいいんだけれど、また、次の旅行の予定を考えたりします。

 別に、「温泉が悪い」「旅行に行ったって仕方がない、行かない方がいい」─そんな話をしているわけではありません。ただ、私が選んだり、決めたりして行動すると、よくこんなことになってしまうのです。「こんなはずじゃなかった・・・」と。

 きっと、問われているのだと思うのです。

 「あなたは今、どこに向かって、一体どうなりたくて生きているのですか?」

さとりの岸にいたる

 春と秋にはお彼岸があります。彼岸は「到(とう)彼岸」。「彼(か)の岸に到(いた)る」という意味です。「迷い」というこちらの岸から、「悟り」という彼の岸に到るということだと聞かせていただいています。でも「迷い」とは?

 私は自分の価値観の中で懸命に「こうすれば楽になる」「こうなればきっと満足できるはず」と考えて人生を組み立てているつもりです。でも、思いがけないことがたびたび起こりますし、仮に予定通りにいったとしても、すぐに「こんなものか」と、何の感激もなく、空(むな)しく時を過ごしているのが事実だったりします。感動することも、満足することも失ってしまった私は、一体どうなれば満足するのか・・・?おそらくこんな私のありさまを「迷い」というのだと思います。

 「彼の岸」は、阿弥陀さまのお浄土。私はこのいのちを終えると、お浄土に生まれる。でも、そこに生まれてどうなるのか・・・。「私と同じような仏さまになるんだよ」と阿弥陀さまはおっしゃってくださいます。

 仏さまになるとは?

 それは、一切のいのちを・・・、時間でいえば「すべての瞬間」と、きっといえるのだろうし、場所でいえば「どこでも」、人でいえば「誰でも」ともいえるのだと思います。そんな一切を、私のように空しく、無意味なものに見ていくのではなく、全(すべ)てにきちんと意味を与えることのできるいのちになること。そして、他の人にも、ちゃんとそのことを気づかせることができるような、そんな大きな大きないのちになること。「無意味ないのちなど一つもないんだ」と。そんなことを、ちゃんと考えて生きていないのが、私であったりするのです。

生まれてきてよかった

 私はどこかで、自分だけが思い通りにいけば、都合通りにいけばいいと思っています。他の人は関係なし。でも、そんなところでけっこう孤独を作っていたりもします。「誰も僕のことなんてわかってくれない」などと言いながら・・・。ずいぶん勝手なものです。

 何だか恥ずかしいのかもしれません。なぜなら、もし他人のことを考えるとしても、私は見返りだったり、結果を気にしますから。それで思い通りにいかないと、またイライラしたりするのです。

 でも、阿弥陀さまは、全部知っていてくださいます。そんな私だから、「南無阿弥陀仏。ここにいるからね。絶対捨てないからね。必ず仏さまにするからね」と一緒にいてくださるのです。いつ終わるかわからない、今という時間しか生きることのできない、この私を捨てない、そんな世界がここにあります。

 私の人生の方向は決まっています。とてもとても不思議なことですが、阿弥陀さまがいてくださる。きっと私が生きるということは、そんな大きな大きな阿弥陀さまに、たくさんたくさん気づかされ続けていくことなのでしょう。

 一体私はどこに向えばいいのか、何を望めばいいのか、願えばいいのかということも、全部阿弥陀さまが知っていてくださった。阿弥陀さまが、私の人生を本当に満足させてくださる。私は生まれてきてよかった。いつ終わってもいいのだと。

(本願寺新報 2010年03月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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