読むお坊さんのお話

心の依りどころ

嶋津 教信(しまづ きょうしん)

北豊教区仏教青年連盟委員長

結婚式って何のため

 年末に、北豊(ほっぽう)教区仏教青年連盟の活動として、模擬仏前結婚式を開催しました。青年が対象ですので、まずは仏教に興味を持ってもらわねばと考えた結果、仏前結婚式にたどり着いたのです。実をいいますと、私自身結婚を間近に控えており、そのことも手伝って結婚式についていろいろと考えてみました。

 まず、私の実感として、仏前結婚式はあまり一般に知られていないように感じます。仏事と言えば、葬儀や年回法要といった印象が強いせいでしょう。実際、日本における結婚式は神社で行う神式や、教会やチャペルで行うキリスト教式、最近では人前式がはやる一方で、仏式はごくわずかです。

 とはいえ、いずれの形態にしても、宗教的な思いから行っているとはあまり言えないようです。例えば、「あの有名人が○○神社で挙式したから」といった流行や、「ウエディングドレスも着ることができるし、見た目もいいから」といった外見などが重視されがちです。

 しかし、そもそも結婚式とは形式だけのものなのでしょうか。本来は、巡り遇(あ)い、結ばれるご縁をいただいた二人が、新たな人生を歩み始める大切な儀式です。ですから、流行を追いかけたり、見た目を気にしたりするよりもまず、夫婦二人が生きていく上での心の依りどころに基づいて行うべきではないでしょうか。

「僕と苦労を共に」

 ところで、すでにご結婚されている方は、プロポーズの言葉を覚えておられるでしょうか。現代においては「必ず幸せにするよ」という内容のものが多いようです。しかし、以前は「一緒に苦労しておくれ」といっていたようです。

 「どうか私の苦労を分け合っておくれ、一人ではとても背負いきれないから」

 「あなたの苦労を私にも背負わせておくれ、あなたと共に歩んで行きたいから」

 そんな思いが、この言葉には込められています。一緒に喜ぶことよりも、一緒に苦労したり、泣いたりすることの方が、はるかに難しいことではないでしょうか。私はここに、仏さまのようなあたたかさを感じます。

 『仏説無量寿経』には「もろもろの庶類(しょるい)のために不請(ふしょう)の友となる。群生(ぐんじょう)を荷負(かぶ)してこれを重担(じゅうたん)とす」(註釈版聖典7ページ)と、あります。

 私自らが求めなくとも、仏さまの方から私にはたらきかけてくださり、友となってくださるのです。そしてまた、私の苦をそのまま自らの苦として引き受けてくださり、私のいのちを引き受けてくださっているのです。

 苦しみ、悲しむ私に向けて、「一人じゃないよ、私がそばにいるよ」とよびかけてくださり、私の心の依りどころとなってくださっているのです。その仏さまの尊前において、結婚を誓い、互いに敬い合い助け合う人生を誓うのです。そして、その仏さまと一緒に、夫婦が歩んでいく人生であるからこそ、二人の新たな出発点である結婚式を仏前で執り行うのです。

お慈悲は私の活力

 浄土真宗では「仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)」ということを大切にします。仏のご恩とは、私が求めなくてもいつも私のそばに寄り添い、私のいのちを引き受けてくださる仏さまから受けたご恩です。

 では、報謝はどうでしょうか。私たちは、自分勝手な生き方しかしていません。それどころか、自分勝手な生き方をしていることにすら、気付いていないのです。仏さまの光に照らされることによってはじめて、私の姿が知らされるのです。

 そして、自身の姿が知らされたならば、恥ずかしく思って立ち止まるのではなく、自身を改めることはかなわなくとも、少しでも仏さまのお心にそっているかとたずねていく。それは、この私のいのちを精いっぱい、力強く生き抜くことでもあります。これが報謝の姿です。阿弥陀さまのお慈悲が、今を生きる私の依りどころとなっているのです。

 最初に触れましたが、私も今年の3月に結婚します。形式的に仏前で行うのではなく、いつも私に寄り添ってくださっている阿弥陀さまのお慈悲を依りどころとし、そのお心にそった、夫婦共に敬い合い支え合っていく、仏恩報謝の日暮らしを歩ませていただきたいものです。

(本願寺新報 2010年02月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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