ベンチの風景
網干 善一郎
兵庫・善行寺衆徒

なんで座ってない?
平成18年、私の住んでいる兵庫県で「のじぎく国体」が開催されました。それに伴い、県全体の競技力アップを図ろうという動きが起こりました。
その縁で私は、地元の小・中学生と一緒にハンドボールをすることになりました。そこで出会う子どもたちのいのちは、実に個性豊かです。ガッツポーズを乱舞させ、闘争心を前面に押し出す子ども、自分のミスに責任を感じて、思わず泣き出してしまう子どもなどなど。これからも、縁ある限り、そんな子どもたちと共に汗や涙を流していきたいと思います。
そんなふれあいの中で、先日、こんなやりとりがありました。それは、ビデオ録画をしていた自分たちの試合を観ながら、各々の反省点を探そうという時のことです。
ある1人の子どもが、ベンチに映っている私たちスタッフの姿を見て、「なんでイスがあるのに座ってないの?」と聞いてきたのです。その場にいたスタッフを代表してチームの監督が「それは、みんなのことが心配で心配で仕方ないから、思わず立ってしまうんや。練習してきたことを精いっぱい、発揮してほしいと思うから、立ち上がって、声をかけてるんやで。みんながコートで一生懸命プレーしてる時に、ベンチのイスにふんぞり返って座ってるなんてことはせえへん」と答えたのです。
お立ち姿の仏さま
私は納得してくれたのかなぁと、彼の様子を窺(うかが)っていると「ふーん。でも、試合になると無我夢中やから、ベンチからの声は聞こえへんで」と笑いながら話したのです。素直な言葉です。これが選手たちの本音なのでしょう。あまりにも正直な返答に、私たちスタッフも苦笑いするしかありませんでした。
けれど監督が「それでもええねん。みんなに声が聞こえなくても、みんなのことが大好きやから、それでも立って応援し続けるんや」と言葉を続けました。
これは、スポーツを通して交わされた、監督と選手の何気ない会話です。けれど、その場に居合わせた私は、このやりとりから、阿弥陀さまのお姿をふと思い浮かべたのです。
浄土真宗の阿弥陀さまは、お木像であれ、ご絵像であれ、すべてお立ち姿の仏さまです。逆に言えば、蓮華の座に腰をおろし、じっと座りながら、私たちを見ておられないということです。なぜか? このことについて、中国の善導(ぜんどう)大師は、ご自身のいのちの問題として深く味わっておられます。
迷い続ける私のために
善導大師は『観経疏(かんぎょうしょ)』を著され、「仏さまのお徳は、この上なく尊いことである。だから、仏さまというのは、本来、たやすく、軽々しく立ち上がるべきものではない」(筆者取意)と告げられました。
その上で、にもかかわらず、お立ち姿で現れてくださったことを「この世を偽りの笑みを浮かべながら、裏切りを胸に秘め、欲望に振り回されて生きていこうとする凡夫の在り様は、まさに三悪道(さんまくどう)(地獄・餓鬼・畜生)の迷い火の中に堕(お)ちていく姿そのものである。さらに申すなら、その危機に直面しながら、気付こうともしていない。その凡夫のいのちを、ただ座ったままで、じっと見続けることができないと願われ、阿弥陀さまがわざわざ立ち上がってくださったのだ。迷いの牢獄にいる凡夫のために立ち上がり、抱きとって、光を与えよう、ぬくもりを与えようとはたらき続けてくださるのが阿弥陀さまの大悲の深さである」(同)とお示しくださいました。
生死(しょうじ)の海に流されながら、溺(おぼ)れゆく私を、岸辺から座ったままで眺(なが)めることができなかった阿弥陀さまは、私のために立ち上がり、休むことなく、私のいのちに寄り添い続けてくださっている。私を決して決して、ひとりぼっちにはさせないと立ち上がり、今、まさにこの私にはたらき、生き続けてくださっている阿弥陀さま。
喜びの日も、悲しみの日も、愛する日も、背く日も、この人生を共に歩んでくださる阿弥陀さまの慈しみと育(はぐく)みのおこころを、あらためて教えてくれたのは、子どもの感じ取ったベンチの風景からでした。
(本願寺新報 2010年01月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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