この誕生をご縁に -いまも「南無阿弥陀仏」とよび続けの親心-
緒方 義英
東九州短期大学准教授 福岡県築上町 寶蓮寺住職

ほんとうの親
昨年の暮れに、待望の長男が誕生しました。年末の慌ただしさを感じさせない、ひっそりと静まりかえった深夜の産院に、元気な産声(うぶごえ)が響き渡りました。親にとっては何とも愛(いと)おしく、その小さな体で精いっぱい泣きじゃくる姿に、これまで味わったことのない特別な感情を覚えました。
それからというもの、息子が泣けば悲しくなるし、息子が笑えばうれしくなります。「笑う」といっても新生児微笑(びしょう)で、実際に笑っているわけではなく、笑っているような顔をしているだけなのですが、その表情一つひとつに一喜一憂するのです。
ふと、金子みすゞさんの「さびしいとき」という詩を思い出しました。
私がさびしいときに、
よその人は知らないの。
私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
佛さまはさびしいの。
私がさびしい時、多くの人は、そのことをまったく知りません。私がさびしい時、友達は笑顔で励ましてくれ、母親は優しく受けとめてくれます。友達も母親も、ほんとうにありがたいのです。でも、このさびしさは何なのか...。
私がさびしい時、ほとけさまはさびしい。私がさびしければ、ほとけさまもさびしい。ほとけさまは、いつでも、さびしさをともにしてくれる。「これがほんとうの親というものだよ」と、教えられているような詩なのです。
愛憎のただ中で
わが子の存在というのは、無条件で愛おしいものです。しかし、仏教では、「愛憎(あいぞう)は執着(しゅうじゃく)を生み、執着は苦しみを生む」と教えます。確かに、愛別離苦(あべつりく)(好きな人と別れる苦しみ)や怨憎会苦(おんぞうえく)(嫌いな人と会う苦しみ)は、私の愛憎によって生まれます。愛憎が大きければ大きいほど苦しみも大きく、愛憎が多ければ多いほど苦しみも多い。愛しているからこそ心配になるし、愛していることで憎(にく)しみも大きくなります。
釈尊も、わが子に対する情愛を断ち切ることに苦労なされました。カピラ城の王子であった釈尊は、ヤソーダラー妃(ひ)との結婚後、「後継ぎが生まれたら城を出よう」と出家の決意を固めておられました。しかし、わが子が誕生すると、そのあまりの愛おしさに決意が揺らぎ、思わず出家をためらったといいます。
結局、釈尊は、わが子に対する情愛を断ち切って、その後、出家を果たされるのですが、このエピソードは、親の抱く情愛の深さを如実に物語るものと言えましょう。
私たち夫婦は、到底、息子への情愛を断ち切ることはできません。そのような二人だからこそ、阿弥陀さまのご本願を仰(あお)ぎ、その智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の中で子育てさせていただくのです。
子が親をよぶようになるまでには、親が何度も何度も「母さんよ」「父さんだよ」とよび続けなければなりません。こうした親のはたらきかけなしに、子が親をよぶことはありません。親が子をよびによんで、ようやく子は親をよぶようになるのです。
衆生(しゅじょう)が阿弥陀さまの名を口にするようになるのも、これとまったく同じことです。阿弥陀さまのほうが、久遠(くおん)のむかしから、私を喚(よ)び続けてくださった。そうであるから、この口にお念仏が出るようになったのです。お浄土に生んでくださる親のほうから、「南無阿弥陀仏」と名のってくださり、「安心して頼(たよ)れよ」と喚び続けてくださった。そのおかげで、いま、お念仏を喜べているのです。
阿弥陀さまは、私たち一人ひとりを、どこまでも「一人子(ひとりご)」のように慈(いつく)しんでくださいます。たとえ、同時に何千、何万の人の親になろうとも、私のことを思い、ともに喜び、ともに悲しんでくださるのです。そして、私がお念仏申すたびに喜び、お浄土に生まれることを楽しみにしておられるのです。
おかげさまで、わが子のもとにも、すでに阿弥陀さまの喚び声は届いています。息子が、将来お慈悲を喜べるように、いまもこうして、「南無阿弥陀仏」とはたらきかけてくださっているのです。本当にもったいない、ありがたい親心です。
(本願寺新報 2017年04月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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