読むお坊さんのお話

ピカピカの10円玉 -そのまま光り輝くいのち-

三上 明祥(みかみ みょうしょう)

布教使 滋賀県大津市・本福寺住職

何てひどいことを

 私は、お寺の法務とともに、保育園の園長をしているのですが、ある卒園児のお母さんから以前、こんなお話を聞かせていただきました。

 T君は、言葉で自分の思いを相手にうまく伝えることができず、お友達とトラブルになったり、イライラして大きな声をあげてしまうことが多いお子さんでした。

 お母さんも、そんなT君の姿を周りのお友達と比べては不安になり、これからどうすればいいのかと、大きな悩みを抱えていたのです。

 そんなある日のこと、夜中にお母さんが自宅の2階で寝ていると、1階から大きな物音が聞こえて目が覚めました。なんだかイヤな予感がして下に降りてみると、なんと台所がめちゃくちゃに荒らされていたのです。

 飲み物や調味料が散乱し、食器や鍋、フライパンがひっくり返ったその光景を見て、お母さんはT君がやったのだと直感しましたが、すでにその場にT君の姿はありません。こんなひどいことをしでかしたT君の気持ちが、全く理解できなかったお母さんは、その場で泣き崩れてしまったのです。

 しかし、ずっとそのまま落ち込んでいるわけにもいかず、お母さんは泣きながら少しずつその散らかった台所を片付け始めたのです。そして、流し台のところで、ふと、あるものに目を奪われました。それは、まな板の上に置かれたピカピカに光った10円玉だったのです。お母さんは、それを見て膝から崩れ落ちました。

 T君が台所をめちゃくちゃに散らかした理由、それがこのピカピカの10円玉だったのです。T君はテレビの番組か何かで、色のくすんだ10円玉をピカピカにする方法を見たのです。それがどうしてもやりたくなり、台所中を探して洗剤や調味料などいろんなものを試して、やっと10円玉をピカピカにし、満足して台所を出て行ったのでした。

 お母さんは、その10円玉を見て、もう笑うしかありませんでした。そして、T君のすべてを受け止めようと思ったそうです。

輝けず生きづらい

 私は、保育園で子どもたちと毎日かかわりながら、いつもこの話を思い出して、一人一人が大切に持っているピカピカの10円玉を見つけようと心がけています。

 しかし、それでも気づかないうちに、大人の思いに子どもたちを縛りつけているのではないかと悩むことがあります。私の心を覆う、大人の都合という自己中心の心が、いつも邪魔をするのです。

 『阿弥陀経』には、阿弥陀さまのお浄土に咲く荘厳な蓮の花の姿が説かれています。
  青色青光(しょうしきしょうこう) 黄色黄光(おうしきおうこう)
  赤色赤光(しゃくしきしゃっこう) 白色白光(びゃくしきびゃっこう)
  微妙香潔(みみょうこうけつ)

 青い花は青く輝き、黄色い花は黄色く輝き、赤い花は赤く輝き、白い花は白く輝き、なんとも素晴らしい香りが広がっているというのです。

 あらゆるいのちを分け隔てることなく慈しむ阿弥陀さまの国であるお浄土は、それぞれのいのちがそのまま輝き、お互いがお互いを比べることなく、相手を受け止めていく世界なのです。

 しかし、この迷いの世界に生きる私たちは、そのままでは生きていけません。お互いが自分の持つ価値観によっていのちを比べようとするからです。

 社会で生きていく中で、人間関係に疲れて自分の殻に閉じこもってしまった時、人生の中でさまざまな逆境に陥(おちい)り、その苦しみを誰にもわかってもらえず孤独を感じた時、青いものが青く輝けず、黄色いものが赤く輝こうと無理をするのです。自分の色で輝けない、そこに生きづらさを感じてしまうのです。

 阿弥陀さまのお浄土を依りどころとして生きるということは、その姿とかけ離れた生き方をしている自分の姿を知らされるということです。

 そこに、自分の価値観によってお互いを比べ傷つけ合うのではなく、お互いが相手の大切なものを尊重し、さげすむことなく認め合う社会が広がっていくのです。そして、生きづらさを感じる社会の中で、そのままに輝けずに苦しんでいる私もまた、阿弥陀さまの前ではピカピカに光り輝いていると知らされるのです。

(本願寺新報 2019年01月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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