足が止まったその時に -いつでも帰っていける場所がある-
井上 見淳
龍谷大学准教授 福岡県飯塚市・正恩寺衆徒
人生そんなもんや
実は今しがた、小学校6年生の息子を受験会場に送ってきたところです。緊張でこわばった顔を無理に笑顔にして「じゃあ」とだけ言うと、頼りない背中で他の受験生たちにまじって会場の奥へ消えていきました。見ていると何とも言えない気持ちになってしまいました。
そういえば私が、むかし私立高校を受験した時のことです。引率の先生を先頭に学生服で整列して会場へ向かう田舎から来た私たち。隣を歩いていたのは、いかにも都会的な感じの3人組の私服の受験生でした。
道すがら、彼らの「公立高校はどこを受験するのか」という会話が聞こえてしまったのですが、彼らが口にしたのはいずれも県内屈指の進学校でした。私たちは内心、「こんなすごい子と一緒に受験するのか」といきなり浮き足立ったのでした。
さて、到着すると開門前でしたが、すでにかなりの受験生が集まっていました。やがて中から係の人が小走りに出てきてガラガラと開門したその時です。先ほどの3人組をはじめ、ほかの受験生たちが、なぜか一斉に走って怒濤(どとう)のごとく会場へ向かうではありませんか。まだ時間はじゅうぶんにあるにもかかわらずです。私たちも、訳がわからないまま、「出遅れてはいかん」と取りあえず全員が猛ダッシュしていたのでした。
帰ってそのことを父に話しましたら、はじめは笑って聞いてましたが、「そんなもんや、人生は...」とぽつり。そして「何で走っとるかわからんけど、みんな走ってるから自分も走るんよな」と言ったのでした。
私は今この言葉がよくわかります。結果を出せば認めてもらえますが、出せない者は相手にされない。そんな厳しい社会をみな懸命に生きています。時に他人を責め、自分を責めて、それでもせっせと走ります。
しかしながら、こんな日々に疲れてしまったり、うまくいかなかったりして、つい足が止まってしまった時、そのみなさんをあたたかく迎えてくださる方がいますか。いつでも心やすく帰っていける場所はありますか。
心の依りどころ
『歎異抄』には、親鸞聖人のこんな言葉が残されています。
「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少(ろうしょう)・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」
(註釈版聖典831ページ)
ここで阿弥陀さまの誓願を「不思議」と形容されているのは、それが、他者と比較して優劣をつけながらしか生きていけない私たちの発想を完全に超えているからです。
そのことを「老少・善悪のひとをえらばれず」と述べてあるのですが、このお言葉について、かつてある先生が、「これは自分を外に置いて頂くのではなくてね。自分が若い時でも年老いた今でも、たまに善い心を発した時でも、また悪い心を発(おこ)してしまった時でもと、どこまでも私は自分の上で頂いています」とおっしゃいました。
確かに縁によってどんな生き方でもしてしまう私たちです。しかし、そんな私をいつだって案じ続けてくださる阿弥陀さまと、「いのち」の故郷であるお浄土まで二人連れで歩ませていただくのだと受け止める時、「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」と抱き取って絶対に見捨てない「摂取不捨」のぬくもりを感じることになるのだといわれているのでしょう。
思い返せば、本当に失敗ばかりで恥の多い人生です。でも、たとい私がどうあろうとも、絶対的に認めてくださる方がおられる。失敗したってあたたかく受け入れてもらえる心の依りどころがある。苦難の「意味」を尋ねつづけていけるみ教えに今すでに出遇(あ)えている。これは本当に有り難いことだとしみじみと感じます。
さて、ぼちぼち息子の迎えの時間です。どんな顔で出てきても、親として思いっきり笑顔で抱きしめてあげたいと思います。「暑苦しい!」と嫌がられそうですけどね...。
(本願寺新報 2019年02月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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