読むお坊さんのお話

出会い -善き友がいまも導いてくれている-

大田 利生(おおた りしょう)

勧学 広島県江田島市・大行寺住職

うちのひ孫が・・・

 「うちのひ孫が...」と話し始められたのは、お参りに行った先のご婦人です。

 「日頃は離れた所に住んでいますが、先日も帰ってきて、見るとお仏壇の前に座っているんです。後で気がついたんですが、大事にしていたおもちゃをお供えしているんですよ。私には、孫が何人かいますが、どの子も自分からお参りしようとはしません。ひ孫は4歳になったばかりで、お寺の幼稚園に通っているんです。もちろん、その子の母親もお仏壇にお参りします」と話されるのです。

 ああ、そうだったのか、とうなずきながら、すっきりする思いがしたことでした。ひ孫の様子を見ていたご婦人は、おそらくほほ笑みながら、やさしい眼をしておられたのだろうと想像しました。

 私は帰りの道すがら、そのかわいい姿を思い浮かべながら、仏の子として大きく成長してほしい、そんな思いを直接伝えたいという気持ちにかられたことでした。そして、親から子へ、子から孫へと受け継がれていくものが感じられ、温かいつながりが心にしみ込んでくるような思いがしました。

 現代は、その温かいところを探そうとしても、なかなか見つけることが困難になっているようです。一番心安らげるはずの家庭でさえ、どこに行ったのか、探さねばならない時代のようです。

 もう40年以上も前のことです。一人の女子学生が書いたレポートの中で、学校の教科書に書いてある正しいことを学ぶよりも、間違っていても、祖母から聞くほうが温かみがある、と書いていたことを今でも思い出します。温かさは、身近なところにあるということでしょうか。

 ともかく、先のご婦人のひ孫さんは、幼稚園の先生や友達にかこまれて、自然に影響を受けて身についたものが、お仏壇の前に座らせたのでしょう。

本当のつながり

 私たちは、多くの人との出会いの中で生活しています。その出会いが長く深まっていけばいくほど、相手のことをよく知ることになります。そのとき、相手のことがわかるだけでなく、自分のことも知らされてくると言えるのでしょう。他人の姿が見えるということは、はねかえって、自分の姿に気づくということです。

 人間は、自分の強いところ、秀(すぐ)れたところを見せたがるものです。しかし、弱いところ、欠点も持っています。さらに、それがゆるされているところまではなかなか思い至りません。もしそこに気づくとしますと、他人を批判したり、自己中心的な生き方はできなくなるはずです。そこにこそ本当の絆(きずな)、つながりも生まれてくると言えるのでしょう。

 私には、学生時代からの親しい友がいます。時には、兄弟以上の絆を感じることもありました。寮生活を共にしたからでしょう。その中の一人と、こんなことがありました。

 彼がかなり重い病気で手術を受け、リハビリを行っているということで、病院を訪ねました。その後、2、3日経ってお礼のはがきが届きました。その中に、「遠いところ来ていただいて申し訳ありませんでした」と書かれていました。さらに、この一行の途中にかっこ書きで「あなたが健康であることがうれしいです」とありました。

 私はそれを見ながら、彼の心の深いところに他を思いやるやさしさを感じることでした。その心に触れて、あらためて善(よ)き友に出会ったことを喜んだことでした。そんな7、8人の友達仲間を「悪友会」と呼んできましたが、善き友「善友会」とすべきだったと思ったことです。

 仏教には慈悲、柔軟心(じゅうなんしん)ということばがあります。ともに、浄土の教えの本質をあらわす語でもあります。そして、温かみあふれるものが感じられます。

 「柔」の字には「いつくしむ」という意もあります。また、『大無量寿経』には、「法(ほう)を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大(おお)きに慶(よろこ)ばば、すなはちわが善(よ)き親友(しんぬ)なり」(註釈版聖典47ページ)と示されます。

 最初にあげたひ孫さんも、悪友会の面々も、みんな善き友と思われてきます。

 友達も、何人かは浄土へかえっていきました。

 「われおくれば人に導かれ」とのことばどおり、いま、導いてくれていると思うことです。

(本願寺新報 2019年02月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

※カット(え)の配置やふりがななど、WEBサイト用にレイアウトを変更しています。

※機種により表示が異なるおそれがある環境依存文字(一部の旧字や外字、特殊な記号)は、異体文字や類字または同意となる他の文字・記号で表記しております。

※本文、カット(え)の著作権は作者にあります。

一覧にもどる