いつも照らされている -これ以上、阿弥陀さまに心配かけたくない-
西河 雅人
本願寺派総合研究所研究員 京都府南丹市・安楽寺住職

影絵を見て光を知る
私は雨の日以外ほぼ毎日、早朝ウォーキングをしています。早起きして約1時間、季節ごとに移り変わる田舎の風景を楽しみながら、朝の澄みきった空気の中を歩くのは本当に気持ちのいいものです。
1月末の夜明け前、星も見えない暗い道を防寒具に身を包んで歩いていた時のことです。途中でふと下を見ると、両手を振って歩く私の短い影が見えるのです。私の前になぜ影が? と不思議に思って振りかえると、なんと、先ほどまで雲に隠れていた月が、まるでスポットライトのように私を照らしているのです。家を出た時は雲に隠れていた月が、いつの間にか雲が流れて顔を出していたのです。
未明の暗い道を一人で歩いていると思っていた私は、全く月に気づかず、照らされてできた自分の影を見てやっと気づいたことに何とも言えない不思議な感動を覚え、しばらく月をながめていました。
静かに光る月を見ていると、今から10年前に87歳で往生した母とのある出来事が思い出されました。
母は長年、小学校の教諭をしており、しつけには厳しい人でした。50年以上も昔になりますが、私が小学1年の時です。秋の夕暮れ、友達と遠くまで遊びに行った帰り道、私は道端に落ちていた自動車の小さな部品を拾って帰ったことがありました。それを見つけた母はたいそう怒り、元あった場所に戻してくるまで家に入れないと、玄関の扉を閉めてしまったのです。
あたりはもう薄暗く、泣きながら歩き続けた私は、ようやく拾った場所までたどりつき、部品を置いて後ろを振りかえった時、村はずれの民家の塀越しに私を見つめる母の顔が見えたのです。
母は扉を閉めた後、私の後ろを気づかれないようにそっとついて来ていたのです。私は母に駆け寄って「ごめんなさい」と言った後、二人で手をつないで帰ったことを今でもよく覚えています。
煩悩の身のままで
親鸞聖人は『高僧和讃(こうそうわさん)』に、
煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて
摂取(せっしゅ)の光明(こうみょう)みざれども
大悲(だいひ)ものうきことなくて
つねにわが身(み)をてらすなり
(註釈版聖典595ページ)
と詠(よ)まれ、阿弥陀さまの摂取(せっしゅ)の光明は、煩悩にまみれた私の眼(まなこ)ではその光を直接見ることはできませんが、その大いなるお慈悲は、たとえ私が忘れてしまっていても、倦(あ)きることなく、昼も夜も私のことを照らし、まもってくださると喜ばれています。
私は、阿弥陀さまの光明やお姿は見えなくても、夜空の月や、あの時の母のように、常に見ておられると感じることがあります。
普段の生活の中で喜怒哀楽に流され、怒ったり愚癡(ぐち)を言ってしまったり、心の中に不安や恐れ、悲しみや、自分ではどうすることもできない苦しみに襲われたとき、その原因がほかならない私自身の自分勝手な欲望であることに気づかされ、後悔とともに思わずお念仏がこぼれ出ることがあります。
私を苦しめる煩悩、つまり私が自分の影に気がつくということは、私のことが心配で心配で目が離せないと、常に私を見まもってくださる阿弥陀さまの摂取の光明に照らされていることにほかなりません。光が届いているからこそ、影を知ることができます。もし光がなかったら、それこそ真っ暗な闇です。
親鸞聖人の「正信偈」に、「煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)を得るなり」(同203ページ)とあります。
これは「自ら煩悩を断ち切ることなくそのままで、浄土で仏のさとりを得ることができる」と訳されます。「煩悩のまま」とは自分の煩悩に気づいた人の言葉にほかなりません。人間の身体を有するかぎり、人間的苦悩から逃れることはできず、命終わる時まで心身をわずらわす煩悩がなくなることはありません。
しかし、煩悩具足の存在である私だからこそ、いよいよ阿弥陀さまの摂取のはたらきの目当てであったと気づいたならば、これ以上、阿弥陀さまに心配をかけたくないとの心が起こってくるのではないでしょうか。
親は子どもの行為が許せない時、それはいけないことだと気づかせたくて叱ります。しかし、これは子どものことが心配でたまらないという親心であって、やがて子どもがそれに気づいて、もうこれ以上、親に心配かけたくないと思えた時、今まで育てられた有り難さを知ることになるのではないでしょうか。母に叱られたことが、懐かしく記憶に残っていることがうれしいのです。
(本願寺新報 2019年05月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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