途絶えることのない願い -死を受け止めながら如来のはたらきを伝える-
深水 顕真
布教使 広島県三次市・専正寺住職

過疎高齢化の中で
突然、ある地域の二人の女性が、お寺を訪問してくださいました。普段はあまり見かけない組み合わせに何事かと思っていると、「住職さんにご相談があるのですが...」と切り出されたのです。
「名号(みょうごう)さんのことで...」
この言葉で、お二人の来訪の意味を理解するとともに、嫌(いや)な予感がしました。
「名号さん」とは、お二人の地域のお寄り講の名称です。江戸時代中期、京都のご本山から講としてお名号をいただき、ご消息もいただいたという由緒のある講です。
このお名号には物語があり、地域の代表が名号を拝受するために京都に出かけましたが、数人が旅の途中で亡くなったというのです。毎年営まれる講の法座では、その方々の追悼、顕彰も行ってきました。
現在は二つの集落にまたがってこの講は継承され、お名号を安置する小さなお仏壇が1年ごとに二つの集会所を行き来し、担当となった集落の方々が当番で法座を主催されます。
この講には、私のお寺の住職が代々お参りしてきました。一緒に正信偈をおつとめした後、ご消息を拝読。この後、2席の法話をすることが習わしとなっています。
そして、中休みでは、住職もお同行(どうぎょう)も一緒にお茶を飲みながら、ご法義や日常のさまざまな出来事について語り合います。
その一方で、中山間地域の過疎高齢化はたいへんきびしいものがあります。私のお寺がある地域でも、この10年間で人口が約2割減りました。今回の「名号さん」の二つの集落も、戸数は28戸ありますが、いわゆる現役世代を抱える世帯は半数以下で、多くは高齢者の夫婦もしくは単身世帯です。つまり、10年もしないうちに戸数は現在の半数となることを意味しています。
先ほどの二人の女性の来訪の目的は、この二つの集落の代表として、「名号さん」の行く末を相談にきたというものでした。
常に私たちを照らす
お二人は、高齢世帯が多くなり、講の当番制もだんだん維持できなくなってきて、近い将来には、法座を開催することもできなくなるであろうと言われました。そしてその時、ご本山からお受けしたお名号やご消息などの法物(ほうもつ)をどのようにすべきかという切実な相談を持ち掛けられたのです。
突然、この相談を受けた時、私は住職として何とか現在の講を維持することはできないか、説得することはできないかと考えました。
しかし、先ほど述べたような現状では、何年か先延ばしにすることはできても、将来的にずっと維持することは不可能です。さらに二人の女性が代表で相談に訪れたということは、二つの集落の総意として、講を閉じようと考えておられるということなのでしょう。
思いを巡らせた私は、こんな提案をしてみました。
「地域の状況や、皆さんのお気持ちはじゅうぶんに理解できました。一方で住職として〝そうですか〟とはなかなか言えません。そこで、お名号やご消息などの法物はお寺で預かる、ということにさせてもらえないでしょうか」
私はこの相談は「講を閉じる」のではなく、「講の葬儀」と考えなおしたのです。講も世俗の存在であるかぎりは、諸行無常(しょぎょうむじょう)のことわりを離れることはできません。いつかは死をむかえます。しかし、阿弥陀さまの願いは途絶えることはなく、常に私たちを照らすものです。
ご和讃では、世俗を超えて、阿弥陀さまのはたらきが常にあることを次のように記されています。
光雲無礙如虚空(こううんむげにょこくう)
一切の有礙(うげ)にさはりなし
光沢(こうたく)かぶらぬものぞなき
難思議(なんじぎ)を帰命(きみょう)せよ
(註釈版聖典557ページ)
私は浄土真宗のお寺の住職として、死を受け止めながらもその向こうにある阿弥陀さまのはたらきを伝えていかなくてはならないと思いました。それは「講の葬儀」の導師を務めるということです。
「休講の法要をおつとめしたうえで、ご先祖が大切にされたお名号などの法物は、これからはお寺で預からせていただきます。もし再び縁がととのえば、ぜひ『名号さん』を復活させてください。また、講という形の復活が難しくとも、阿弥陀さまのはたらきが変わらずあることを皆さんにお伝えしましょう」
この言葉を聞いて、相談に来られた二人の女性の表情が、帰る時には少し安心されたようでした。
(本願寺新報 2019年06月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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