読むお坊さんのお話

共にあるいのちの尊さ -暗闇をあきらかにする阿弥陀さまの光明-

長原 真了(ながはら しんりょう)

布教使 長野市・善立寺住職

よび声に救われる

 私が暮らしているところは、長野市の善光寺を中心にひらかれた門前町です。親鸞聖人も越後から関東に赴かれる際に滞在されたと伝えられ、地域にはさまざまな親鸞聖人にまつわる伝承が残されています。また、親鸞聖人ご自身も、『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』に「善光寺讃」を詠(よ)まれています。

 その善光寺には、有名な「お戒壇(かいだん)巡り」があります。

 一光三尊(いっこうさんぞん)のご本尊・阿弥陀如来は秘仏とされています。そのご本尊が安置された本堂の床下に、ロの字型に巡る暗闇の回廊があり、そこを一周するのがお戒壇巡りです。

 私が幼少の頃、母とこのお戒壇巡りをしたことがあります。およそ45メートルの真っ暗闇の中を、右手で壁をつたいながら一人で進むのですが、真っ暗闇の恐怖から、まともに歩くことさえできませんでした。

 暗闇に何も見えず、不安と恐怖で心はいっぱいになりました。そのとき、ただ、すがれたのは、「こっちだよ、こっちにおいで」と聞こえてくる母のよび声だけでした。

 ただただ、「お母さん、お母さん」と母をよびながら暗闇を通り抜け、明かりの中で母に抱かれたときの安堵感は、いのちがほっとする境地そのものでした。

 この暗闇の中で頼りになったのは、母のよび声、つまり言葉でした。母が私を導き救おうとする思いを、よび声という言葉として伝えるとき、それは私を助けたいと思う母の願いそのものであったと味わうことができます。そのように考えると、暗闇に迷い苦しむ中で聴く言葉の尊さを思わずにはおれません。

 地獄は言葉の通じない世界
 人間は言葉のいる世界
 浄土は言葉のいらない世界

 先哲のお言葉ですが、確かに人間の世界は言葉が必要であり、言葉によって結ばれています。それは、単に言葉が人と人をつなぐ伝達手段というだけでなく、私の心(人間世界)が闇に閉ざされているからではないでしょうか。

願いに聞く生き方

 それではなぜ、私の心が闇に閉ざされていると言えるのかと申しますと、たとえば、今、自分の部屋を見わたしたとします。机やいす、本棚や音響機器などが置かれていますが、どれも必要だから置かれているのであり、実際どれも毎日の暮らしに役立っているものばかりです。

 そのように思えば、すべてのものが有り難いのですが、それは「明るい」から思えることかもしれません。一転、暗闇に包まれた部屋の中を動こうとすると、置いてあるものにぶつかり、つまづき、有り難いものが邪魔なものへと変わってしまいます。そうすると、心に思い、口をついて出てくるのは腹立ちや愚痴、嘆きなどの暗いことばかりです。

 私たちの人生や日々の暮らしの中でも、このようなことが見当たるのではないでしょうか。

 周りの人々とぶつかったり、予期せぬものや出来事に遭遇したり、自分の思い通りにならない状況に対し、愚痴や嘆きばかりを繰り返してはいないでしょうか。

 このような姿をかえりみれば、まさに暗闇の迷いの真っただ中にある私だと知らされます。

 私自身が暗闇の中で母の言葉だけが頼りと感じられたように、迷いの人生に明け暮れる私を救わずにはおけないと願われたのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまがそう願われたとき、自ら「南無阿弥陀仏」と言葉の仏となって、私に至り届いてくださったのです。

 阿弥陀さまが、私たち人間の闇を明らかにしてくださる光明は、私たち一人一人が共にあることの尊さを教えてくださいます。

 私は、自分の正義や価値観を正しいものとして日々生きていますが、争いは常に正義と正義との対立によって生まれます。だからこそ、言葉を聞くときには、自らの姿をかえりみることが必要であり、それによって人の言葉に耳を傾けられるようになり、同時に対話が始まるのだと思います。

 親鸞聖人も、さまざまな人の言葉に耳を傾けていかれたことでしょう。時には、阿弥陀さまのみ教えをそしる人や、危害を加えようとする人もあったことでしょう。

 私たちも、人の言葉を聞いて、その背景をたどり、お互いの理解によって社会を成り立たせていくという営みが、違いを認めながらも、共にあるいのちを大切に生きることとなるのです。そのことを、「南無阿弥陀仏」の願いに聞かせていただきます。

(本願寺新報 2019年06月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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