読むお坊さんのお話

ニョニョさまの懐 -私は今、さとりの世界へ向かういのちとなる-

浅野 執持(あさの しゅうじ)

布教使 愛媛県今治市・万福寺衆徒

仏さまのはたらき

 いきなりですが、なぞなぞの問題です。

 「自分のものなのに、ほかの人のほうがよく使うものはなあに?」

 答えは「名前」です。名前は人に自分を知らせ、証明するもの。無人島では必要ないでしょう。

 浄土真宗は「名号(みょうごう)」、つまり「南無阿弥陀仏」によって救われる教えです。名号とは仏さまのお名前です。そのお名前は私のためにあり、仏さまのはたらきそのものであると聞かせていただきます。

 5歳になる娘が「バスは運転手さんで、飛行機はパイロットよね」と、たずねてきました。

 「そうだよ」と答えると、娘は少し考えてから、断言するように「車は、お父さんとお母さんよね」と言ったのです。その発想がおかしくて、後でつれあいと笑いました。

 娘は、バスや飛行機を操縦する「運転手」「パイロット」という仕事の名前と、家の車を運転する「お父さん、お母さん」という家族の呼び名とを、同列に考えていたようなのです。

 娘の質問に答えながら、名号には「運転手」「パイロット」のように、はたらきや役割を表す一面とともに、「お父さん、お母さん」のように、情を含みながら関係性を表す一面もある不思議な言葉のように思えてきました。

 さて、なぞなぞ第2問。

 「ビーチボールの中にあるのは空気ですが、浮き輪の中にあるのはなあに?」

 答えは「人」です。ビーチボールの中には入れませんが、浮き輪の輪の中には入れます。

 どんな人が入るかといえば、「泳げない人」です。泳げない人が浮き輪の中に入ればもう沈みません。泳ぐ練習をしたわけでもなく、沈むという性質は変わらずに、浮き輪の作用によって途端に沈まなくなるのです。

  「南無阿弥陀仏」の中には「私」がいます。どんな私かといえば、本来「沈む私」です。永遠の孤独を抱え、苦しみや悲しみに沈む私が、南無阿弥陀仏に抱かれるのです。

 だからといって急に、孤独がなくなるのでも、苦しみや悲しみがなくなるのでもありません。さまざまな感情を抱えて煩悩を持ったままの私が、決して沈むことのない私、そこに留まることのない私に転じられるのです。

決して離さない

 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏のはたらきを「摂取不捨(せっしゅふしゃ)(摂(おさ)め取(と)って捨(す)てない)」と示してくださいます。

 「摂取」は「栄養を摂取する」などという時に用いられますが、自分と一つにするということです。「不捨」とは、いったん一つになったものが決して離れないことです。阿弥陀如来が、私を抱きとり、もう決して離さない、離れることがない。そのはたらきこそが南無阿弥陀仏なのです。

 「おかあさんといっしょ」というテレビ番組があります。この番組名は「おかあさん」という言葉と「いっしょ」という言葉からできています。二つの言葉が、合わさって一つの「名」となっているのです。

 南無阿弥陀仏は、この「おかあさんといっしょ」に似ていると感じることがあります。南無阿弥陀仏は「仏さまといっしょ」というはたらきそのもの。名号を称(とな)える時、仏さまがいっしょなのです。いつでも、どこでも「仏さまといっしょ」の私は、今、ここで、この私のまま、さとりの世界へ向かういのちとなるのです。

 地元を離れ、長年、首都圏で暮らされている年配の男性から、お手紙をいただきました。そこには、月刊「大乗」に掲載された私の法話について詳しく書かれてあり、その感想として「文章のいたるところに阿弥陀如来さまのお話があり、うれしかったです」と添えられていました。

 そして、その方の幼少の頃の日常が、懐かしく思い出される様子がつづられていて、そこに「ニョニョさまの懐の中の生活でした」とあったのです。

 「ニョニョさま」とは、ののさま、阿弥陀さまのことでしょう。何気ない幼い頃の日常が、如来さまの懐にあったというこの方の人生が、今も変わらずずっと如来さまとご一緒だと感じました。

 南無阿弥陀仏は、今、ここに生きる私に届く仏さまのはたらきです。お念仏を称えながら「仏さまといっしょ」の人生であることを、共に聞かせていただきましょう。

(本願寺新報 2019年07月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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