読むお坊さんのお話

「豊浜悲歌」 -「私たちのちかい」と北の念仏者-

佐々木 重昭(ささき しげあき)

布教使 北海道赤平市・常照寺住職

トンネルが崩落

 1996年2月末、一通の手紙が郵便受けに入っていました。差出人は「小樽市 島本邦子」と記されていましたが、記憶をたどっても思い当たりません。全く面識のない方でした。

 手紙を読みますと、2月10日午前8時10分頃、北海道積丹(しゃこたん)半島の古平(ふるひら)町で豊浜トンネル崩落事故が起き、20人の尊い生命が犠牲になったことが記されていました。

 そして、この事故をテレビで知ってからは涙が止まらず、犠牲になった方々の無念さ、ご遺族の悲しみを思うと胸が引き裂かれそうになり、そんな心情を無心で詩につづったと書かれてありました。

 さらに、その詩を横浜在住の法友に見せたところ、その方が、北海道に仏教讃歌を作曲する佐々木さんという住職がいるので、ぜひともこの詩に曲をつけて後世に残してほしいと島本さんに伝えたとのことでした。

 その後、島本さんは、私の所在を数日間探し続けられ、その経緯をお手紙にしたためられたのでした。

 私は、その依頼に戸惑いました。この悲惨な事故を曲にすることが、果たしていいことなのだろうかと思ったからです。

 私は数日間、悩みました。そして、もう一度お便りを読み返した時、ある文字に気づいたのです。

 それは最後の一行に記されていた「南無阿弥陀仏」でした。

 島本さんの悲しみは、同時に阿弥陀さまの悲しみなんだと思えました。

 その思いに促され、ピアノの前に座り、詩に導かれるようにメロディーが完成。その旋律を、札幌で副住職をしている私の甥(おい)に歌ってもらい、その録音テープを島本さんに郵送しました。

 間もなくお返事の便りが届きました。ご遺族の方々にそのテープを自ら手渡したいとのことでした。早速、カセットテープ数十本にダビングして再度郵送しました。

 島本さんは、そのテープを古平町役場に持参し、その思いをお伝えしたところ、町役場が責任をもってご遺族全員にお届けいたしますとの有り難いお言葉をいただいたそうです。

 そして間もなく、ご遺族の方々から、お仏壇の前や、お墓の前で聴かせていただいていますとの感謝の思いが島本さんに寄せられたとのことでした。その詩をご紹介します。

  「豊浜悲歌」
  切り立つ崖(がけ)と 寄する波
  冬の日本海に 沿う道を
  老いも若きも それぞれに
  希望(きぼう)抱(いだ)いて バスに乗る

  一寸先が 闇という
  人世の言葉を そのままに
  巨岩(きょがん)崩れて トンネルに
  閉ざされ埋まる 二十人

  波に消される 声だけど
  岩を透(とお)して届けよと
  父が呼ぶ呼ぶ 母が呼ぶ
  友が念ずる豊浜トンネル

  吹雪が頬を 打つ中で
  人知尽くして 岩砕く
  発破(はっぱ)幾(いく)たび 涙も凍る
  国をあげての願いがここに

  願い空しく 変わり果て
  我が家へ帰る 亡骸(なきがら)よ
  車を包む 吹雪と闇が
  人の心に 無常と響く
         (以下略)

私ができることを

 「南無阿弥陀仏」を名号(みょうごう)と言います。

 「名」とは、自ら名のること。「号」とは叫ぶ声のこと。阿弥陀さまが、私たちを悲しんでおられる叫び声と私はいただいています。

 島本さんの一連の行動は、決して義務感から生まれたものではなく、まさしく阿弥陀さまの願いそのものだったのではないでしょうか。

 昨年の秋、ご門主がお示しになった「私たちのちかい」4カ条の3番目に、「自分だけを大事にすることなく 人と喜びや悲しみを分かち合います 慈悲に満ちみちた仏さまのように」とあります。

 決して力むことなく、義務感を抱くことなく、私ができることを少しずつ...。ちょっと立ち止まって、雑草の力いっぱいのいのちに驚嘆(きょうたん)し、夜には瞬(またた)く星たちの輝きに魅了される。そして一言「ありがとう」とつぶやいてみる。

 今しか繋(つな)がることのできない存在があることを教えてくださった一人の念仏者に出あえたことを、「私たちのちかい」から、あらためて教えていただいた貴重なお念仏の〝学び〟でした。

(本願寺新報 2019年08月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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