あったかいお慈悲 -真実の親からこの身にかけられた願い-
鶯地 清登
布教使 大阪府東大阪市・本照寺衆徒

全部違う!
「もう勝手にせい!」
「あぁ勝手にするわ! 自分の人生は自分が決める。ほっといてくれ!」
私がお寺に養子に入ることを反対していた父に対して、そんな捨てゼリフを吐いて、家を出てから6年が経ちました。父は反対した手前、優しい言葉をかけてくれたことはなかったのですが、ずっと気にかけてくれていたと、別れてから気づかされました。
いま振り返ると、私が入らせていただいたお寺で法要がつとまると、一度も欠かさず、必ずお参りしてくれたことが、本当にありがたかったです。しかし、父に対して、「いつもお参りしてくれて本当にありがとう」と頭を下げていたかというと、全然そうではありません。
父は5、6年前から体調を崩していました。お寺に来る時も、見ているこっちが心配になるほどフラフラでした。「法要が始まる10分前に来てくれたらいいよ」と言うのですが、必ず1時間前くらいに現れます。「遅刻したらアカン」とか言いながら。
「法要前はバタバタしているし、なんでそんなに早く来るねん」と、毎回ちょっと腹が立ちました。
しんどそうな顔をしているので、「法要中に体調が悪化したらどうしよう」「誰かに迷惑かけたら嫌やなぁ」「こんなに心配かけられるんやったら、無理してお参りせんでいいのに」と、ずっと思っていました。
父に「ありがとう」とさえ言わずに、「無理してお参りせんでいい」と、父の思いをずっとはねつけていた私がいました。
先日、そんな話を僧侶の先輩にしました。すると、その方が私に、「体がしんどいのに無理して来なくていいって言われてんのに、なんでお参りしてくれたんやと思う?」と質問されました。
私はいろいろと考えて、父は見栄っ張りなところがあったので、「お寺のお父さんとお母さんの手前、来てくれたんですかね」と言いました。
「全然違う」
もっとありがたい答えかなと思って、「仏法に出あえたよろこびからですかね?」
「違う」
いろいろと答えましたが、 「全部違う!」
全然わからないので、「理由は何ですか」と聞きましたら、一言、「それは、親やからや」とおっしゃいました。
背を向ける私を
私はハッとさせられました。子は自分勝手に親の思いを考えますが、親は違う。
「どれほど体がしんどくても、思いをはねつけられても、心配で心配で仕方がないから、一度も欠かさずお参りしてくれていたのだ」と初めて気づかされました。
父はその身をもって親心を教えてくれていたのです。
阿弥陀さまは真実の親さまです。親さまから、どれほど大事な願いがこの身にかけられていても、「自分のことくらい自分でできる、自分のことくらい自分が知っている」という思いがあると、アッという間にその願いを見失ってしまいます。
けれども、私がどれだけ見失おうとも、阿弥陀さまは決して見失われることはありません。どれほどそのお心に背を向けようとも、「あなたを一人ぼっちにしない。あなたを見捨てるようなことがあれば仏とはなりません」と、ずっとずっとはたらき続けてくださっています。
父がいなくなると、やっぱり寂しいです。いつもの席に座っていないのを確認すると、あらためて寂しさが募ります。
阿弥陀さまは、「あなたの寂しさ、わかっているよ。その寂しさを、あなたの力で超えていくことができないこともわかっているよ。あなたに超えろと言っても超えられないとわかっているから、そのままで引き受ける仏に私がなりました。あなたを決して一人にせず、抱いて抱えて、必ず仏へと育てあげます。どうか安心してください」と今この私に至り届き、この口より「南無阿弥陀仏」とこぼれてくださっています。
死んでおしまいの命ではなく、仏と生まれさせていただくいのちをいただいています。親鸞さまをはじめ、これまで私を仏法に導いてくださった方々に感謝をしつつ、阿弥陀さまのあったかいお慈悲のなか、生かされていることをご一緒によろこばせていただきましょう。
(本願寺新報 2020年01月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
※カット(え)の配置やふりがななど、WEBサイト用にレイアウトを変更しています。
※機種により表示が異なるおそれがある環境依存文字(一部の旧字や外字、特殊な記号)は、異体文字や類字または同意となる他の文字・記号で表記しております。
※本文、カット(え)の著作権は作者にあります。