読むお坊さんのお話

花を見るにもナモアミダ仏 -生と死は一枚の紙の表と裏のようなもの-

花田 照夫(はなだ てるお)

布教使 福岡県桂川町・長明寺住職

いつかは自分も!

 京都でお坊さんになる勉強をしていた時のことです。市内を歩いていると、お寺の山門に、こんな歌がありました。

  老境や 
  花を見るにも
  ナモアミダ仏

 しばし立ち止まって、どんな歌か考えました。「老境や」とあるからには、齢(よわい)を重ねられた方の歌でしょう。その老境の中でいよいよ深まるお念仏の喜びを詠(よ)んだ歌でしょうか。散る花の姿に自らを重ね、いつの日か生まれゆくお浄土のたのもしさを詠んだものでしょうか。いずれにしても、南無阿弥陀仏の喜びの世界です。

 「ああ! いつかはこんな歌を詠(よ)めるお坊さんになりたい! こういう喜びをいただけるようになりたいな!」

 そんなことを思っていると、いつの間にか私の後ろに60代ぐらいの3人のご婦人が立っていました。そして3人は口々にこう言われました。

 「寂しい歌...」「悲しい歌...」「こうなる前に楽しんどかないとね...」

 私は「ええっ?」と心底仰天びっくりしました。だって今の今、「こうなりたい! こんな歌を詠めるお坊さんになりたい!」と思ったところですから。

 私はぼうぜんとしながら、もう一度この歌を読み返しました。そして、わかったのです。そう、この3人と私とでは「ナモアミダ仏(南無阿弥陀仏)」の味わいが全く違っていたのでした。

 この方たちにとって「南無阿弥陀仏」とは、通夜や葬儀といった人の死に関わる場面で僧侶がとなえる言葉、呪文(じゅもん)のようなものだったのでしょう。だからこの歌を「人生のあきらめの歌」として理解したのです。歳をとるのは寂しいこと、悲しいこと。花を見ても、念仏しかでません...と。

 去りゆく3人の後ろ姿を見ながら、この方たちは矛盾したことを言っているなと思いました。

 「老い」とは、誰しもがいつか必ずそうなる姿です。その姿に対してこの方たちは、「寂しい」「悲しい」「こうなる前に楽しむ」と言っているのです。ならばこの方たちが言っていることは、「私たちはどんなに今が楽しくとも、最後の最後には寂しいものしか、悲しいものしか残らない人生を歩いていきます」ということになります。それはまさに「むなしい人生」ではないでしょうか。

受けとめる大地あり

 親鸞聖人は、阿弥陀さまのお慈悲を南無阿弥陀仏の中に尊くいただかれ、お浄土という「まことの命の行く先」をいただく仏道をお示しくださいました。そして、その世界を「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(註釈版聖典580ページ)と喜んでいかれました。

 お坊さんが「浄土」であるとか「南無阿弥陀仏」だとか言うと、「そんな死んだ先のことなんて...」「生きている時、いかに楽しく暮らせるかが大事...」ということを言う方がいらっしゃいます。確かにそれも一つの考え方でしょう。しかし、「生きている今だけ楽しければ」というのは本当の人生の喜びの姿ではありません。

 例えるなら、それは文房具店に行って「私は表にしか絵を描かないから、裏のない画用紙をください」と言っているようなものです。裏と表は別々のものではなく、画用紙という一つの存在の両面です。私たちの生死(しょうじ)もそう。裏がしっかりした画用紙だからこそ、表にも存分に絵を描くことができるのです。

 お浄土という「まことの命の行く先」が支えてくださるのは、いつだって「今・ここ・私」です。そして、その一瞬一瞬の私が間違いなく阿弥陀さまのお慈悲に照らされている姿が、口から今こぼれる南無阿弥陀仏です。

 故・武内洞達先生は、
  受けとめる大地のありて
  椿(つばき)落つ
と詠(よ)まれました。お浄土をいただいた念仏者の安堵(あんど)の心を詠んだ尊い歌です。しかし、別の先生がこの歌をこう詠みかえられました。

  受けとめる大地のありて
  椿咲く
 見事な詠みかえです。

 「落つ」と「咲く」は真反対の言葉です。しかし、これらの歌はどちらもまったく同じ阿弥陀さまのお慈悲の世界を詠んでいるのです。

 去り行く3人の観光客の姿を見ながらふと思いました。南無阿弥陀仏を尊いものとして喜ぶ人の姿を、「ああこの方の喜びは尊いな」と思えることそのものが、南無阿弥陀仏をいただいた人生の尊き喜びであると。

(本願寺新報 2020年02月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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