読むお坊さんのお話

死んだらどうなる -死後ではなく、どう生きるかが問われる-

花岡 尚樹(はなおか なおき)

あそかビハーラ病院ビハーラ僧 奈良県大淀町・浄迎寺住職

考えたことがない

 「死んだらどうなると思いますか?」

 私が勤務する、あそかビハーラ病院。実習に来た医学部や看護学部の学生さんへ、このように質問します。すると、互いに顔を見合わせて苦笑いされた後、しばらく沈黙が生まれます。そして、首を傾け考えながら絞り出すように、「いや~よくわかりません」「正直、考えたことがありません」と答える学生さんが約3割。自分自身の死を経験することはできませんから、「わからない」というのは正直な答えなのかもしれません。

 また、こちらの同意を求めるように「天国?」と答える学生さんもおよそ3割います。「天国」と答える学生さんの多くは、身内の死を通して、漠然とではありますが、死後の世界をイメージしています。

 そして「無になる」と答える学生さんが3割。死んだらおしまいという考え方です。残り1割の多くは「生まれ変わる」という答えです。

 「わからない」が3割、「天国」が3割、「無になる」が3割、「生まれ変わる」が1割というのが、20代の医学部・看護学部の学生さんの答えです。その中で私が特に気になるのが、「無になる」という答えの多さです。そう答える学生さんは、親しい人の死を経験していなくて、法事にもお参りしたことがないというケースがほとんどでした。

 「死んだらおしまい」という言葉の中に、何かしら寂しさを感じます。

 私が子どもの頃、地獄について描かれた絵本をみて、死後の世界について考えたことがあります。悪いことをしたら地獄におちるかもしれない...。幼いながらも、何となく怖さを感じた記憶が残っています。

 また中学生の頃、厳しくも優しかった祖父や、幼なじみの友人が亡くなり、死を身近に感じました。

 「死んだらどうなるんだろう」「死んでいくのに、なぜ生きているんだろう」「地獄や浄土って本当にあるんだろうか」と真剣に考えました。考えても答えは出てきません。逆に、幼い頃にみた地獄の絵が頭をよぎり、地獄にだけはいってほしくないと思いました。それと同時に、地獄におちるような生き方をしてはいけないと思ったのも、その時のことです。少なくとも「死んだらおしまい」とだけは考えなかったことを覚えています。

迷いを知らされる

 考えてみますと、親鸞聖人の比叡山での20年におよぶ厳しいご修行。そして法然聖人との出会い。「いづれの行(ぎょう)もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」(註釈版聖典833ページ)とおっしゃられた親鸞聖人にとっては、地獄ということが大変大きな問題であったと思われます。

 自分の幸せだけを願う生き方は、迷いの生き方であり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道(ろくどう)を生まれ変わり死に変わり輪廻(りんね)していくしかありません。そのような生き方は、人としてこの世に生をうけながらも、むなしい人生といえます。

 それに対して、阿弥陀さまのお心、お浄土の世界は、苦しんでいる人が一人でもいれば、自分のしあわせは成立しないという世界です。自分のしあわせを求めるのではなく、他者のしあわせを願う生き方こそが、真実まことの生き方です。

 「地獄は一定すみかぞかし」との親鸞聖人のお言葉は、阿弥陀さまの願いの中に、迷いを迷いと知らされ、真の歩むべき道を知らされた言葉ともいえます。

 「死んだら無になる」という価値観の中では、お浄土を願うべくもありません。また自分自身のしあわせを満たす世界として、「天国」をイメージするのであれば、お浄土の有り難さも感じられません。

 「死んだらどうなるのか?」

 それは死後の話ではなく、自らがどのような生き方をして、何を目指して生きているかが問題なのではないでしょうか。

 真実まことの生き方がみえなければ、迷いを迷いと気づくこともできません。浄土真宗の教えが現代に伝わりにくいのは、それが原因の一つであるように感じます。

 阿弥陀さまの願いの中に、何を目指して生きるのか、私自身の歩むべき道を聞かせていただきたいと思います。

(本願寺新報 2020年04月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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