読むお坊さんのお話

親鸞聖人いまさずは -親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要に向けて-

中村 英龍(なかむら えいりゅう)

布教使 広島市佐伯区・最広寺住職

本堂のお菓子

 「お父ちゃん、一つだけ食べてもいい?」
 「あかん!」
 「じゃあ、余ったら一つもらってもいい?」
 「これは如来さんへのお供(そな)え物だ!」

 お寺の法要の前日、本堂でお菓子をお供えする父に、幼き少年は何度もお願いをしたのでした。

 「じゃあ、どうしたらもらえるん?」
 「ちゃんと本堂でお参りしたら、総代さんにお願いして、お前にもお下(さ)がりを一つもらってやる。わかったか!」
 「わかった...」

 聞き分けのよい少年は、それから、お菓子をお供えする父の姿...ではなく、父がお供えするお菓子をじ~っと見つめ続けていたのでした。

 ガラ、ガラガラ...。

 お寺の者が寝静まった夜ふけ、にぶい音にヒヤヒヤしながら、本堂の戸を開ける者がいます。そう、どうしてもお供えのお菓子を食べたかった昼間の少年でした。ぬき足、差し足、忍び足...。

 ガラ、ガラガラ...。

 再びにぶい音にヒヤヒヤしながら本堂の戸を閉める少年の口の中には、とろけるチョコレートの甘さがいっぱいに広がっていたのでした。

 あくる日、

 「おーい、お前たち。ちょっと来てくれんか!」

 呼ばれた3人のきょうだいは、かけ足で本堂へ向かって行きます。その中に一人だけ、いやな胸さわぎを覚える者が...。

 「お父ちゃんが今朝お参りに来たら、どうもお供えのお菓子が減っている気がするんだが、知らんか?」
 「私、知らんよ!」
 「ぼくも知らんよ!」
 「う、うん、ぼくも知らんよ...」
 「そうか、お父ちゃんの見間違いか。だが、もう1回だけ聞いてみるぞ。いいか、お父ちゃんにはウソはついてもいいが、阿弥陀さんだけには、絶対にウソをつくなよ!」

 姉が聞かれ、弟が聞かれます。
 (どうする、どうする...)
 ついに、少年の番です。

 「英龍、お前はどうや?」
 「ぼく...が、食べ...ました。ごめ...ん、な...さい」

 その後、「あんたのせいで、私も怒られたじゃんか!」「兄ちゃんだけ食べてずるい!」
と、さんざん責められた私でしたが、なぜか心はホッと楽になったのでした。

しんらんさま

 親鸞さま、あなたが教えてくださった「南無阿弥陀仏」というおみのりは、不思議ですね。幼き少年は、あのまま父親にウソをつき通すこともできました。阿弥陀さまにウソをついても、罰なんて下(くだ)らないことも知っていました。

 親鸞さま、でも少年は〝阿弥陀さんだけ〟にはウソがつけませんでした。そういえば、ある学僧が、このようなことを教えてくださいました。

 「人が人をだますことは、知れたものだ。しかし、私が私をだます。それは、私を地獄に突きおとす」

 私を地獄の闇(やみ)へ向かわせるものは、誰でもなく、私自身の内にあったのだとわからせていただきました。

 今振り返れば、私がウソをつかなかったのではありません。そこに、何か言い表せない〝お育て〟がはたらいてくださっていたのだとわかります。慈悲の心が、道を間違える私を、自分を見失う私の心を「間違えさせない、見失わせない」と、つかんでくださっていたのですね。おかげで、私は本当の闇におちなくてすみました。おかげで、私は自分自身とまっすぐ向き合うことができました。

 親鸞さま、あれから40年と少しが過ぎました。お寺の住職となった私は、法要のお供えをするたびに、あの日のことを思い出すのです。現代に作られた、この歌を口ずさみながら。

  この世の旅の
  あけくれに
  さびしいいのちを
  なげくとき
  なもあみだぶつ
  となえれば
  しんらんさまは
  よりそって
  わたしの手を取り
  あゆまれる
      (しんらんさま)

 あなたのお導きで、私たちはいつも「阿弥陀さまが見てくださっているよ」と、手が合わさるご縁をいただいています。そして、南無阿弥陀仏の慈悲に生かされて、今をていねいに生きてまいります。お浄土への人生を歩ませていただきます。

(本願寺新報 2020年06月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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