読むお坊さんのお話

今こそ問われる"生き方" -煩悩を抱えながらも、常に私にできることを-

西川 正晃(にしかわ まさあき)

岐阜聖徳学園大学教授 滋賀県彦根市・金光寺住職

不寛容な世界観

 今、私たちの生活は大きく変化しています。外出制限や自粛生活は自分の命を守る行動であり、自分を取り巻く大切な人の命を守る行動でもあります。ところが、こうした自粛生活が続いた結果、私たちに潜在していたものが、顕在化してきたように感じます。

 「自粛警察」という言葉があります。新型コロナウイルスの緊急事態宣言で自粛要請が長期化したとき、インターネット上では感染した人をおとしめたり、繁華街を訪れた人などを非難したりする書き込みが相次ぎました。こうした行為がインターネット上で「自粛警察」と呼ばれました。

 ある女性歌手のライブが無観客でネット配信されました。ライブハウスは休業要請の対象でしたが、同時に複数の演奏者を出演させないことなどを条件に、無観客でオンライン配信用ライブを行うことは問題ないと行政は判断していました。しかし、「安全のために、緊急事態宣言が終わるまでライブハウスを自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます。近所の人」と記した紙が店の前に貼られたそうです。

 ある商店街では、約420店舗の4割ほどがシャッターを閉めていました。営業していたのは休業要請対象外の衣料品店や雑貨店、要請に応じて営業時間を短縮している飲食店などでした。するとその商店街には連日匿名のメールや電話で苦情が寄せられたそうです。「コロナを商店街から発信するつもりか」「二度と商店街へ買い物には行かない」「恐怖」...。

 これらは自粛要請などではなく、行き過ぎた嫌がらせであり、ある識者は日本特有の同調圧力であると分析していました。

 コロナ禍によって不寛容な世界観が広がっているように思います。今まで身近であった関係が、相互監視という関係になり、「自粛警察」という不寛容が広がったのでしょう。

 「不寛容は恐怖から生じる。恐怖は不安から生じる。不安は無知から生じる。不寛容を払拭するためには、科学的根拠に基づく正確な情報」が必要であると指摘された方がありました。

仏教の「三つの毒」

 今回の新型コロナウイルスの出現により、命の存亡とともに、人間がいかに生きるべきかが問われています。人間の嫌な部分が見え隠れし、目に見えない恐怖によって平常心を失いがちな昨今、私たち人間はどのように生きればいいのでしょうか。

 お釈迦さまは人間を苦しめる三つの毒があると言われています。仏教の三毒とは、「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」という三つの煩悩です。これら三毒は煩悩の中でも最も代表的な存在です。

 「貪」とは欲ということです。マスクが高値で転売できると知ると、必要以上に買い占めてしまいます。

 「瞋」とは怒りの心です。「自粛警察」の例のような、他の人を許せない気持ちであり、その怒りが普段とは全く違った行為にしてしまうのです。

 「痴」とは愚かさ、無知をいいます。トイレットペーパーが品不足になると聞くと、そうならないと思いつつも、買い占め行動に走らせるなど、不安な気持ちが行動に現れてしまいます。

  よく一念喜愛(いちねんきあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、
  煩悩(ぼんのう)を断(だん)ぜずして涅槃(ねはん)を得(う)るなり。
     (註釈版聖典203ページ)

 これは「正信偈」の一節です。私たちは煩悩を抱えて、さまざまな苦悩に満ちた社会に生きなければなりません。しかし、どんな世の中であっても、阿弥陀如来は「必ず救う」とよび続け、この私に信心を届けようとしています。

 この信心を恵まれ、阿弥陀如来の救いを喜ぶことができるならば、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとり(涅槃)を得ることができると、親鸞聖人はおっしゃっています。

 今まさに先が見通せない時代です。新型コロナウイルスや、そこから派生するさまざまな苦悩と共に生きなければならない私たちです。お念仏香る生活の中で、真実を探求し、今の私にできることは何かを常に問い続け、地に足着いた時間を過ごしていきたいものです。

(本願寺新報 2020年06月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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