読むお坊さんのお話

仏の願いを私の願いに -「性」の問題をいのちの問題としてみ教えに聞く-

宇治 和貴(うじ かずたか)

筑紫女学園大学准教授 熊本市・廣福寺副住職

自分の偏見に注意

 私が勤めている筑紫女学園大学の同窓会に出席した時のことです。その会は、卒業生の方がすべての運営をしてくださっていたのですが、司会の方は男性でした。卒業生の参加者は全員女性だと思い込んでいた私は、先輩の先生に「なぜ、司会の方だけ卒業生ではないのですか?」とお尋ねしたところ、その先生が「違いますよ。司会の方も卒業生ですよ」と教えてくださいました。

 女子大の卒業生で男性がいらっしゃるということがよく理解できず、さらにその先生に「なぜ、男性の方が本学の卒業生なのですか?」とお尋ねしたところ、「生まれ持った性と、自分が生きるうえで望む性が異なる方がいらっしゃいます。トランスジェンダーといいます。そのような方は、当然のことですが、私たちの周りにもたくさんいらっしゃいます。女子大の在学生や卒業生が、女性だけだと思い込んでいるのは偏見です。そのような自分自身の偏見に私たちは敏感になって、常に注意しておく必要があります。本学の建学の精神は仏教ですから」と教えてくださいました。

 その後、その卒業生の方とお話をさせていただく中で、自らの「性」に違和感を覚えた時の悩み、そのことで家族や友人に相談もできずに「生きていたくない」と考えていらっしゃったことなど、簡単に書くことができない数々のお話を聞かせていただきました。

 中でも、「多くの人たちが、あたりまえだと考えている価値観と異なる価値観を持った人間は、社会からいないものとされているので、差別をうけても差別とすら認めてもらえない」という言葉を聞いて、私はガーンと頭を殴られたような衝撃を受けました。

 その時まで私は、社会には男性と女性がいて、女性は男性を、男性は女性を好きになることが「あたりまえ」だと考えていました。しかし、多くの人が「あたりまえ」だと考えて、何気なく発言している言葉や態度が、当事者の方々にとっては、大変な暴力となり、傷つけているという事実を教えていただいたのです。

念仏者の生き方

 私は日頃、念仏者として、「阿弥陀さまの願いを、できるかぎり自らの願いとしながら生きたい」と考えていたにもかかわらず、「あたりまえという暴力」を気づかないうちにふるい、さまざまな人を傷つけてきたことを知り、とても悲しく、申し訳ない気持ちになりました。

 親鸞聖人は、阿弥陀さまの願いと、そこに照らされた私たちの姿を、
  小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身(み)にて
  有情利益(うじょうりやく)はおもふまじ
  如来の願船(がんせん)いまさずは
  苦海(くかい)をいかでかわたるべき
     (註釈版聖典617ページ)
と教えてくださっています。

 阿弥陀さまのように生きたいと願っていたにもかかわらず、自らの偏見やとらわれによって物事を見ていた私は、「小慈小悲もなき身」そのものでした。しかし、親鸞聖人は、そのような私に「自らの差別を仕方がないとして放置せず、自らの課題として反省し、解決するために新たに歩みを始めよ」とお育てくださる阿弥陀さまのはたらきを「如来の願船」として教えてくださっていると思うのです。

 私は卒業生の司会の方に教えてもらった反省をもとに、自分自身が念仏者として生きるということを、あらためて考えてみました。その結果、自分が差別をしている現実に打ちのめされ、そこで解決への歩みをあきらめるならば、阿弥陀さまのおはたらきに背(そむ)くことになるのではないかとの考えを抱きました。

 それから私は、仏教に関する講義の中で、「性」の問題をいのちの問題としてお話しさせていただくことにしました。すると、「実は、私も同じ問題に悩んでいました」という学生さんが、たくさん名のりでてこられ、相談してくださるようになりました。学生さんたちは「話せてうれしい」と言ってくれますが、私のほうこそ話していただけて本当にありがたく、申し訳なく思っています。

 阿弥陀さまの願いを、私の願いとして生きることは、とても難しいことだと思います。それでもその困難さを、尊いご縁といただきながら生きることが、念仏者の生き方だといえるような気がしています。

(本願寺新報 2020年08月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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