深いまなざしの心 -自分中心の私に気づかされ、真実を見つめる-
西川 正晃
岐阜聖徳学園大学教授 滋賀県彦根市・金光寺住職

マスクをすると・・・
先日、とある保育園の園長先生と話をする機会がありました。普段から笑顔を絶やさずに子どもたちと接している先生方を誇りに思っておられました。ところが、新型コロナウイルス感染症予防のため、保育中にマスクを着用することがあたりまえになった頃、若いA先生が笑っていないことに気づかれました。
マスクを使用していない時は、A先生は、口角を上げて表情も豊かにされていたので、園長先生は素敵な笑顔と思っておられました。ところが、マスクをして口元や顔のほとんどが隠れた状態になった時、目だけが笑っていないことに気づかれたのです。
そのことを園長先生はとても気にしておられました。しばらくすると、A先生が園長先生のところにやってきて、「子どもはかわいいのですが、保育が楽しくありません。違う仕事で夢を追いかけたいとずっと願っていました。保育園を辞(や)めたいと思います」と話されました。
子どもと対しているのに、目の前の子どもを見ずに自分の夢を見ていたので、目が笑っていなかったのかもしれないと園長先生は納得されました。そして、再出発を心から喜ばれて送り出されたそうです。
園長先生の話を聞いて、二つのことを感じました。
まず一つは、A先生の苦悩を見抜かれたことです。相手の心を見てとることはとても難しいことではありますが、ささいなことからでも相手の思いを受けとめ、感じ、わかろうとされています。
そしてもう一つは、相手を受け入れようとする姿です。自分の考えと違うものであったなら、無意味なものとして決めつけてしまいがちです。しかし、園長先生は自分が描く理想像に少しでも近づけようとはせず、A先生の気持ちを受けとめ、ともに喜んでおられます。
この園長先生の対応は素敵だなと思いました。そして、A先生に向けられた深いまなざしは、他の先生方や子どもたち、保護者の方にもきっと向けられていて、みんなが幸せな時間を過ごしておられるのだろうなと感じました。
私だったらどうだろうと考えてみました。まず、目が笑っていないということに果たして気づくことができたでしょうか。表面的なしぐさや言葉などから、なんとなくこれでいいやと見過ごし、わずかなサインから真実を読み取ることができなかったと思います。
また、たとえそれを見てとることができたとしても、笑っていない行為を批判したり、辞めるという決断を非難したりして、自分の思い通りにならないことに、自分の感情をさらけ出していたのではないでしょうか。
大悲のはたらき
親鸞聖人はご和讃の中で、次のように詠(うた)われています。
信心のひとにおとらじと
疑心(ぎしん)自力の行者(ぎょうじゃ)も
如来大悲の恩をしり
称名(しょうみょう)念仏はげむべし
(註釈版聖典611ページ)
私たちは、真実を見つめ、相手の立場に立って生活することが、どれだけ大切であるかを知っています。そうありたいと常に考えている自分がここにいます。ところが、何かうまくいかないことが起きると、相手のせいにし、腹を立て、自分だけが正しいのだと思ってしまう自分もここにはいます。
そのどちらかが自分なのではなく、どちらも自分なのです。相手に対して疑いの心をもって、その結果、自分勝手な言動と、その言動に同調させようとする働きかけは、真実が見えなくなってしまいます。
私の力で、自分中心の私をあらためることは非常に困難です。ましてや、自己中心的な自分をなくすことはできません。
親鸞聖人は、そんな私であったとしても、大悲のはたらきによって念仏者になったのですから、如来大悲の恩を知り、ありがとう・おかげさまと感謝して念仏を称(とな)えましょうとお示しくださいます。
如来大悲の恩を知ることで心が翻(ひるがえ)ったその瞬間、かたくなな私であっても、真実を見つめることができるようになるのです。そして、相手のありのままの姿を受けとめ、寄り添い、ともに歩んでいこうとするまなざしの心が現れてくるのです。
こうして気づくことができるのは、阿弥陀さまの必らず救うというはたらきに、すでに出遇(あ)っているからだと、味わわせていただいております。
(本願寺新報 2020年09月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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