読むお坊さんのお話

先立たれた方をご縁に -南無阿弥陀仏と共にいきるよろこびを感じる-

和氣 秀剛(わけ しゅうごう)

布教使 奈良県五條市・圓光寺住職

死は新たな始まり

 今年の8月に父の17回忌を迎えました。突然亡くなった父の後を継いで、圓光寺の住職となったのは26歳の時でした。

 今も、別れの寂しさは感じます。父が生きていたら、どんな生活を送っていただろうと考える時もあります。そんな中で、私を支えてくれたのは浄土真宗の教えでした。

 中でも「なごりをしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁(えん)尽(つ)きて、ちからなくしてをはるときに、かの土(ど)へはまゐるべきなり」(註釈版聖典837ページ)と仰(おお)せになられる親鸞聖人のお言葉は、私に阿弥陀如来の大悲大願に支えられて生きる念仏者の姿を教えてくださいます。

 念仏者にとって、この世の縁の尽きることは終わりではなく、死は仏として生まれていく始まりなのです。この世の縁が尽きる時、人と人との関係は終わります。それは同時に、残された私たちにとって、仏さまの世界との関係の新たな始まりでもあるのです。

 大切なお方との別れを経て、今、私はどのように生きているのかを考えるご縁が、一周忌、三回忌、七回忌...のご法事ではないかと思います。普段は日常に追われて、ゆっくり考える時間が少ないものです。ご法事をつとめる時期が近づくと、日常を離れて大切な人を思い出す時間を恵まれるのです。何を感じ、どのように思うかは人によってさまざまでしょう。

 私の場合、一周忌の時は、1年が経ったという実感がありませんでした。命日の朝、母が「8月2日は忘れられない日になったんやなあ」とつぶやきました。父が亡くなって初めての8月2日です。母の言葉から、父との新たな関係の中に私は生きているのだと気づかされました。

 三回忌は、その年の暮れに結婚する連れ合いがお参りしてくれたこともあって、日常生活も少し落ち着きを取り戻していたように思います。

 七回忌のご法事では、最後の挨拶の時に涙が止まりませんでした。泣けることは大切なことだと思います。泣くことによって、言葉にできない思いも整理されていくのです。

 十三回忌の年、強く感じたのは、父がいのちをかけて私を育ててくれていたという実感です。父が生きていた時よりも、より身近に存在を感じるようになっていました。

 こうして振り返ると、重ねてご法事をつとめることに意味があると思うのです。大切な人を思うことは、同時にそのまま自分の今を教えてくれる大切なご縁となるのです。そして、今もその人と生きている私であることに気づかされます。

私たちの歩む道

 仏教では、あらゆるものが互いに関わり合いながら存在していることを「縁起」と呼んでいます。なに一つとして不要な存在はありません。そのことを知識として知っているのと、実感として受けとめているのでは大きく違います。生活の中で、父がいない日々が大切な経験となりました。亡き父が私に仏教の縁を届けてくれていたのです。

 ご法事は先立たれたお方を縁として、私と南無阿弥陀仏の世界との関係をより深く味わう仏縁となっていきます。仏縁によって、私は決して一人じゃないと気づかされ、生きていけるようになるのです。仏縁の深まりとともに、浄土真宗の教えをより大切に思い、南無阿弥陀仏と共に生きているよろこびを感じるようになっていきます。

 お浄土に生まれて仏と成ると聞いても、私たちには、そうでありますと素直に聞くことは難しいのではないでしょうか。むしろ、今、生きている世界には愛(いと)おしく離れがたい思いを持つものです。

 しかし、どれほどなごりおしく思ったとしても、この世の縁が尽きる時がやってくるのです。少しでもはやくお浄土に生まれたいという思いを持てない私には変わりありませんが、大切なお方の仏縁によって、これまでとはちがう「死」の受けとめ方が恵まれていくのです。

 お浄土に生まれていくことについて、「ただほれぼれと弥陀の御恩(ごおん)の深重(じんじゅう)なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば、念仏も申され候ふ」(同849ページ)と親鸞聖人は仰せでした。

 阿弥陀如来の大いなる願いに支えられて生きる、それが私たちの歩む道となっていくのです。

(本願寺新報 2020年09月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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