如来とひとし -仏さまの願いを大切にして生きていく-
宇治 和貴
筑紫女学園大学准教授 熊本市・廣福寺副住職

「 困った子たち」
私が副園長を務めるお寺の保育園では、園児たちが給食の時間をとても楽しみにしています。時間が近づくと、テキパキと準備をして、少しでも早く給食を食べようと頑張りだす子もいます。
みんなが食べている様子を見にいくと、「先生、こんなにたくさん食べたよ!」「先生、とってもおいしかったよ!」と、口々に喜びを笑顔いっぱいに報告してくれます。
ある日、みんなが楽しく給食を食べている中、しょぼんとうつむきながら食べている子がいました。その子は、ほかのお友達が食べ終わり、おしゃべりしているかたわらで、なかなか食が進まず、ずっとうつむいたままです。
様子を見ていた担任の先生が、「これ以上もう食べきれないの?」とその子に尋ねると、「うん」と寂しげにうなずいていました。
その月の職員会議で給食のことが話題に上がりました。話を聞いてみると、全クラスの担任が、すべての子どもたちに給食をたくさん食べてもらいたい、という願いをもっていました。
さまざまな事情で、ご家庭では子どもの成長に必要な栄養ある食べ物を十分に食べることができない子もいます。だから、担任は子どもの成長を考え、保育園の給食では栄養をしっかりと取ってほしいと思っているようです。
しかし、どれだけ担任が子どもたちにたくさん給食を食べてほしいと思っても、食べることが苦手で、給食の時間が苦しい子はどのクラスにもいます。
「しっかり食べさせなくてはならない」という意見や、「食べ物を残したらもったいない」など、それぞれの考えを語る中で「何で食べない子がいるんだろう。全員がたくさん食べてくれたらいいのに。困った子たちだ」という雰囲気になった時、主任の先生が、このような提案をされました。
「私たちは、自分たちの思いだけで物事を考えてはいけないと思います。今、最初に考えないといけないのは、給食を食べきれなくて困っている子どものことです。その子たちは私たちを困らせる〝困った子〟ではなく、給食が苦手で〝困っている子〟です。大人の目線から、困った子とみるのは簡単です。でもここは、阿弥陀さまの教えを大切にする保育園です。だから、私たち保育者は〝困っている子〟の気持ちに寄り添って解決策を考えましょう」
この提案によって、次々と〝困っている子〟の立場に寄り添った解決へのアイデアが出され、いくつかの方法を日々の給食の中で少しずつ試しながら、一人ひとりの子どもに合った方法を考えようという結論にいたりました。
完全でなくても
ついつい大人は自分の思いを先にしてしまい、思い通りにならない子どもを〝困った子〟と上から見てしまいます。しかし、本人からしてみれば、給食をうまく食べることができずに〝困っている〟のです。主任の発言によって、阿弥陀さまの教えを大切にする人の姿勢は、独りよがりな思いを反省し、〝困っている子〟に寄り添おうとする姿勢なのだということに、職員みんなで気づくことができました。
親鸞聖人はお手紙で、真実信心の人を「如来とひとしと申すこともあるべし」(註釈版聖典758ページ)と讃(たた)えていらっしゃいます。私は親鸞聖人が信心の人を「如来とひとし」いとおっしゃる言葉には、信心に生きようとする人への生き方のヒントが示されていると受けとめています。
それは信心によって、阿弥陀さまの願いを、私たちが生きるうえで本当に大切にすべき願いだと気づかせていただいた人は、煩悩を抱えながらも、すべてのいのちを慈(いつく)しむ生き方を願う存在に育てられる、と教えてくださっているように感じられるからです。
私自身、給食を食べてほしいという自分自身の思いが強すぎて、困った状況を〝困った子〟の責任に転化していたと気づかされ、とても恥ずかしくなりました。
私たちが如来とひとしい生き方を願う時、完全ではないながらも、できる限り相手の立場に寄り添いながらものごとを考えようとする姿勢が生じるはずです。
そうした、阿弥陀さまの願いを自らの生き方の中心におきながら、一人ひとりの子どもたちに寄り添って〝困っている子〟とともに問題を解決しようとする姿勢の大切さを学ばせていただいた職員会議でした。
(本願寺新報 2020年10月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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