親鸞聖人いまさずは -願いは言葉となって私に届く-
和氣 秀剛
布教使 奈良県五條市・圓光寺住職

よび声として聞く
今月の16日は、親鸞聖人の祥月(しょうつき)命日にあたります。本願寺では9日から16日にかけて御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)を毎年おつとめします。親鸞聖人は、私たちにも阿弥陀さまのおはたらきが届いていることを教えてくださいました。親鸞聖人を宗祖と仰ぐ私たち門信徒がつとめる大切なお仏事なのです。
今年の御正忌報恩講は、新型コロナウイルス感染症の影響で、例年のようにおつとめすることが難しい状況になっています。しかし、どのような状況であっても、阿弥陀さまのおはたらきは変わることなく一人ひとりに届けられています。そのことを親鸞聖人は、私たちが称(とな)える「南無阿弥陀仏」のお念仏の意味を通して明らかにしてくださいました。
お念仏は私が称えるものだけれど、阿弥陀さまが私たちをよび続けている声として聞くものであると仰(おお)せになられています。それは、南無阿弥陀仏は阿弥陀さまの「あらゆるいのちをたすけたい」という願いから現れたものだという受けとめが背景にあるからです。「あなたを必ずたすける」という願いは、南無阿弥陀仏という言葉となって、私に届いているのです。
思いが言葉になって私に届く、ということを、私たちの日常生活の中にも見つけることができます。
子どもの頃、毎日、山道を歩いて学校に通っていました。往(ゆ)きは下り坂なので、バス停まで楽に行くことができます。帰り道は上り坂で、15分から20分ほどかけてフーフー言いながら歩いて帰るのです。
ある日のことでした。「ただいま~」と帰ると、「おかえり〜」と声が聞こえるはずなのに、その日は声がしません。あれっ? と思ってリビングに行くと誰もいません。どこに行ったのだろうと家の中を探していると、奥にある納戸(なんど)の片づけをしていた家族の「おかえり〜、早かったんやね」という声が聞こえました。その声が聞こえた時、私はホッとしました。
「ただいま~」と帰ると「おかえり〜」があたりまえの日常に、安心を感じながら生活していたのです。
帰れる場所がある
「おかえり」は「お帰りなさい」の略語で、「お帰りなさい」は「帰ってきなさい」の丁寧(ていねい)な表現だそうです。
ある時、落語を聞いていて気づいたことがあります。外に出かける者に、見送る者が「おはよう おかえりやす」と声をかけることがあるのです。「いってらっしゃい」にあたる部分が、「無事に早く帰って来てください」という意味で「おはよう おかえりやす」と言うのです。出かける時から「おかえり〜」と声をかけるのは、「いつでもあなたが帰って来てもいい場所がここですよ」という思いが声になって現れているからでしょう。
家を離れている時も、ずっとよび続けられているものだから、家に帰ると「ただいま~」と言うのです。家に帰って「おかえり〜」が聞こえないと不安を感じるものです。
毎日、あの急な坂をよく歩いて学校に通ったと思います。帰り道の坂が厳しくとも、どんなにつらい出来事があっても、たとえ遠く離れていても、「おかえり〜」の声に支えられて、歩み続けることができました。どんなことがあっても受け入れてくれる世界は、不安な今を支えるのです。
親鸞聖人は、お念仏は阿弥陀さまがよび続けている声として聞くものであると教えてくださいました。どんなことがあっても、あなたを受け入れるぞ、悲しい時も喜びの時も共に歩もうという願いが、南無阿弥陀仏と、今ここに届いているのです。その願いに支えられ、お念仏申しながら人生を歩んでいくのです。
親鸞聖人のご往生の数日前のご様子は、ただ阿弥陀さまのご恩の深いことを述べ、ほかのことを声に出すことなく、ひたすらお念仏を称えて絶(た)えることがなかったと伝わっています。
阿弥陀さまの願いに支えられ、南無阿弥陀仏の声に導かれて歩まれたお姿が偲(しの)ばれます。
1263年1月16日、親鸞聖人は往生の素懐(そかい)をとげられました。お年は90歳でした。
私たちもまた、親鸞聖人のお勧めになられる南無阿弥陀仏のよび声の中に、悲しみと喜びを抱(かか)えつつお浄土への道を歩ませていただいているのです。
(本願寺新報 2021年01月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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