見えない世界に導かれ -親には返せない恩を、子どもたちのために-
土岐 景昭
岐阜県本巣市・善永寺住職

別れは突然にくる
さかのぼること50年も前のことです。その年の9月13日に、私の祖父が往生の素懐(そかい)を遂げました。お寺の庫裡(くり)の玄関に一番近い場所にある座敷では、家族や親族が祖父の寝ている布団をかこみ、祖父の最期(さいご)を看取(みと)ろうとしていました。昔の人は我慢強く、お医者さんにもかからず、床について1カ月余りのことでした。
その祖父が、鐘(かね)の音(ね)が聞きたいと言ったかどうかはわかりませんが、誰かがすごい勢いで玄関から外へ走って行くと、境内(けいだい)にある鐘楼(しょうろう)の鐘の音が響いたことを今でもはっきりと覚えています。
この梵鐘(ぼんしょう)は麒麟鐘(きりんしょう)といいます。元亀(げんき)元年(1570)から天正(てんしょう)8年(1580)まで11年にわたり、石山本願寺が織田信長との合戦で使った陣鐘(じんしょう)です。この石山合戦で貢献のあった当寺のご先祖が、第十一代顕如(けんにょ)上人からいただいた褒美の鐘だそうです。NHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の麒麟と同じ伝説の麒麟です。
時が流れ、平成27年1月7日に父親が亡くなりました。この日は当寺の報恩講のご満座(まんざ)でもありました。親鸞聖人は弘長(こうちょう)2年11月28日に往生されていますので、本願寺派では旧暦のその日を新暦(グレゴリオ暦)に換算して1月16日をご命日として御正忌(ごしょうき)報恩講がおつとめされています。私の父親は本山の御正忌に先立っておつとめした当寺の報恩講のご満座の日に独(ひと)りぼっちでいきました。
母親は昨年、令和2年3月4日に亡くなりました。満91歳になってすぐに脳梗塞(のうこうそく)になり、緊急入院しました。発見が早く、比較的軽かったため、その病院では3カ月たらずのリハビリで転院することになりました。その後、介護施設に入居してすぐに、今度は誤嚥(ごえん)性肺炎を起こし、口から食べ物が入らなくなりました。そして、あれよあれよという間に衰弱して亡くなりました。私はこの時も独りぼっちで母親をいかせてしまいました。
このように親の死に目に会えないことが、私にとっては取り返しのつかない親不孝をしたように感じていました。
気づけない親の恩
私の両親は、二人とも90歳を越えるまで長生きをしました。ともに健康には注意を払い、大病を患うこともなく、これはひょっとすると百歳まで生きるかもしれないなと思ったこともありました。
しかし、いいことばかりではありません。歳をとった母親は、とにかく口が悪くなりました。年寄り扱いすると言ってすぐに怒り、冷蔵庫には同じ食品が並ぶようになりました。孫に叱(しか)られると、ブツブツ言い訳をして、自分の正当性をいつでも主張しました。また、お客さんが来られると、相手の都合を考えずに昔話を繰り返しました。
老病死(ろうびょうし)は、生まれたからには誰一人逃れることはできません。ですが、その時の自分は、親の姿を見てもどこか他人ごととしか捉えていませんでした。同じ話を繰り返す母親に、優しく接することもできませんでした。我慢できずに感情的になることが多かったように思います。なぜできなかったのでしょうか。
親子のつながりは、不思議なまでに今の自分に返ってくることを、この後に知りました。父親と私は40年の歳の差があります。何不自由なく育ててもらったのに、親孝行な子ではありませんでした。両親が相次いで亡くなり、ようやく自分と向き合うことができるようになりました。なくしてから初めてわかる親の有り難みです。
今になって、後悔の念があふれてきます。もっと親孝行をしておけばよかったと。在(あ)りし日の両親を偲び、念仏申しておつとめをし、それが知らず知らずに身についてきたように、両親が健在な時は見えていなかったものが、今は少しずつ見えるようになった気がします。
長い長い時間がかかりましたが、目には見えない世界がそこにあることが有り難いことと思えるようになりました。おかげさまで、阿弥陀さまと一緒に両親がいつも近くにいるように感じます。
あい難くして今、親鸞聖人のみ教えにあうことができました。親には返せないこの恩を、子どもたちのために命を燃やし返していきたいと思います。
(本願寺新報 2021年02月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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