読むお坊さんのお話

おじいさんのぬくもり -仏となられた方は私たちをお浄土へと導かれる-

巖后 顯範(いわご あきのり)

臨床宗教師 岐阜市・願照寺衆徒

「臨床宗教師」

 医療現場や被災地など、公共空間で心のケアを提供する「臨床宗教師」という資格があります。私が以前、臨床宗教師として岐阜市内のクリニックに勤めていた時のことです。

 そのクリニックでは在宅医療を行っており、自宅で生活する人たちに医療を提供します。中には自宅で最期(さいご)を迎える患者さんもおられ、私も臨床宗教師として医師の往診に同行し、いろんな出あいをさせていただきました。

 そんな経験をさせていただいた中、あるおばあさんとの出あいが、とても大切なご縁でした。

 そのおばあさんは、もともと夫婦二人暮らしで、寝たきりのおじいさんに往診をする医師と一緒に私は訪問していました。

 ご夫婦は仏教を篤(あつ)く信仰されていて、私が臨床宗教師で僧侶でもあることをお話しすると、宗旨は異なりましたが、とても喜んでくださいました。医師がおじいさんの診察をしている間、私はおばあさんのお話を傾聴させていただきます。

 そのお宅での傾聴は、お仏壇にご挨拶をしてから始まるのが恒例となりました。お仏壇の前で、夫婦のなれそめやこれまでの人生のこと、おじいさんの体調のことやこれからの不安、いろんな話を聞かせていただきました。帰り際(ぎわ)にはいつも「ありがとうね。ありがとうね」と繰り返されました。

 そもそも、臨床宗教師とは、公共空間で、心のケアを提供する宗教者です。活動の場が公共空間ですから、いろんな価値観、宗教観をもった方と関(かか)わります。そのため、仏教、キリスト教、神道など、さまざまな信仰を持つ宗教者が協力して活動しています。相手の価値観を尊重し、寄り添うことで心のケアをするので、臨床宗教師として活動する際は布教や伝道を行いませんが、臨床宗教師としての経験から、時には私自身が阿弥陀如来のおはたらきを感じるようなご縁をいただきます。

 訪問を開始してから3カ月ほどが経過した頃、おじいさんは、おばあさんに見守られながら、ご自宅で穏やかに息をひきとられました。おじいさんへの往診はそれで終わりましたが、私は引き続き臨床宗教師として、一人暮らしのおばあさんを訪ねることになりました。

 訪問をしたら、まずはお仏壇へのご挨拶から始まります。仏さまに合掌、礼拝をしてから、変わりはないかお話を聞かせていただきます。

 ふと、おばあさんの手元を見ると、ふたつのお念珠を持たれています。いつもおばあさんが使っている小玉で赤色のお念珠ともうひとつ。それよりひと回り大きいお念珠です。気になったので尋ねてみると、おじいさんのお念珠を一緒に持っているとのことでした。

 「こうやって一緒にお念珠を持っていると、おじいさんといっしょにお参りできている気がしてね。寝たきりで、なかなかお仏壇にお参りできなかったから、なんだかうれしいね」

 ケアを提供する立場の私の心もあたたかくなります。

親鸞聖人のお手紙

 親鸞聖人が晩年、ひとりの門弟に書かれたお手紙にこうつづられました。

 「この身(み)は、いまは、としきはまりて候(そうら)へば、さだめてさきだちて往生し候(そうら)はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候(そうら)ふべし」
 (註釈版聖典785ページ)

 この世との縁が尽き、阿弥陀如来の極楽浄土へと往生された方は、阿弥陀如来のはたらきによって、さとりをひらき、仏さまとなられます。

 仏さまとなられたら、今度はこの迷いの世界に還(かえ)り来て、私たちをお浄土へと導くよう常にはたらき見守ってくださいます。

 「死んだら終わり」―そんな人生ではなく、この世との縁が尽きてなお、今度は仏さまとして活躍の場が広がっているとお示しくださっています。

 ふたつのお念珠を握りしめながら、「なんだかうれしいね」と語られるおばあさんのそばには、確かに仏さまとなられたおじいさんのぬくもりがありました。

 「不安なことはないですか?」と聞くと、いろんなお話をされますが、最後には必ず「私は仏さまに見守られているからね」と、おっしゃいます。

 そんな仏縁を喜ばれる姿に、僧侶として、阿弥陀如来の世界、極楽浄土を感じさせていただいたのでした。

(本願寺新報 2021年03月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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