"おおきくなったよ" -生まれてきてよかったと心から思える出会い-
森 智崇
布教使 大分県玖珠町・光徳寺住職

「なんででもっ!」
まだ長男が4歳だった3月の半ば頃、幼稚園までの通園路を歩く練習をしました。
「危ないから川には近づいたらだめよ」
「なんで?」
安全な道を教えても、子どもにその理由が理解できなければ、納得しません。柵(さく)もない川なので危ない、と近づいてみて理解した様子ですが、初めて歩くその道は興味をひかれることだらけです。
道端に落ちている小さなドングリや春の花、鳥の声など気づいたことを喜々として教えてくれます。目的地の幼稚園はまだまだ先ですが、今度は側溝(そっこう)にオタマジャクシを見つけました。
「オタマジャクシは大きくなったらカエルになるよ」
彼もそのことは知っているはずと思って話しかけると、「なんで?」と驚いた返事。カエルは知っていても、目の前の黒く小さな丸い生き物、オタマジャクシが大きくなったらカエルになるということが理解できないのです。
私なりにいろいろ答えを伝えても、彼の聞きたかった答えではなかったようで、幼稚園までの道中(どうちゅう)はずっと「なんで?」の繰り返しです。
そんな時はつい、声だけ優しく「なんででもっ」と自分に都合のいい、有無を言わさない返答をしてしまいます。これから通う通園路を「ふーん」と黙ってしまった彼と歩きながら、彼が成長していく中で「僕はなんで生まれてきたの?」と問われたら、どう答えようかと思いを巡らせました。
そもそも私自身も、生まれてきた意味も目的地も持ち合わせず生を受けました。「思い通りにならないのが人生。みんなつらいんだよ。なんででもっ」などと、他人事にはできません。
幼稚園に通う長男とは、その後も、そんなやり取りが何度かありつつ、やがて、卒園の日を迎えました。
卒園式では、「おおきくなったよ」という歌を園児たちが歌ってくれます。園での生活で心と体が成長できたことや、別れを前に、出会いのすべてへ感謝の思いが込められた歌です。
歌の中では、子どもの名をみんなが呼び、出会えてありがとう、と伝えてくれます。苦楽をともに歩んできた保護者にとっても、胸がいっぱいになります。
また、歌詞の中で「こんなにおおきくなったよ きょうはないちゃってもいいかな
うまれてきてよかったと こころからおもえるから」という言葉が心にのこりました。
仏さまの名のり
私たちはさまざまな縁の中で生かされながら、しあわせを願い、ひと時のよろこびを大切に重ねつつも、人生の本当の意味を見つけられずに、苦悩し、別れに嘆(なげ)き、迷いの道を独り歩んでいます。
しかし、生まれてきてよかったと心から思える出会いを恵まれたならば、今までの人生に確かな意味が生まれ、これから歩ませていただく目的地をはっきりと知らされることとなります。
親鸞聖人は、お釈迦さまがこの世に生まれてこられた理由は、ただ阿弥陀さまの救い(本願)を説くためであった、とお示しくださいました。また、阿弥陀さまのご本願に出あわせていただいた慶びを、
如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり
(註釈版聖典606ページ)
とお示しくださいました。
私たちの迷いと苦しみのもとを除きたいと願われた阿弥陀さまは、あらゆる功徳をそなえた大いなるお慈悲の名のり声・南無阿弥陀仏となってよび続けてくださいます。
「南無阿弥陀仏、大丈夫、生まれてきてくれてありがとう」
「南無阿弥陀仏、大丈夫、いつでもどこでもあなたとともにいます」
「南無阿弥陀仏、大丈夫、むなしいいのちには決してさせません」
「南無阿弥陀仏、大丈夫、あなたを必ずお浄土に生まれさせます」
生きる意味を問わずにはおれない私たちに、あなたの生きる意味はここにあるとつねによびかけ、よび覚(さ)まし、今の私そのままを受け入れ、独りではないと告げてくださっているのです。
「なんで?」が続く人生、苦悩するたびに「なんででもっ」と無理やりに納得させるのではなく、苦悩するままが阿弥陀さまに願われ抱かれたいのちであったと、一声一声に聞かせていただくのです。
(本願寺新報 2021年03月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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