読むお坊さんのお話

ともに生きる -スズメの姿から人間のこころを想う-

大田 利生(おおた りしょう)

勧学 広島県江田島市・大行寺住職

ご縁によって

 うららかな陽春、庭の木々にとまってさえずる鳥たちの声は楽しそうで、話し合いがはじまったようです。家の者によると、メジロ、ウグイス、ヒヨドリ...など8種類以上の鳥が来ているといいます。その中で最も親しみを覚え、いつも来て会っているのはスズメです。毎朝、何年も鳥たちに餌をやっていると、鳴き声で餌をねだっていることがわかるといいます。

 外を眺めていると、一羽のスズメが木の枝にとまって、あたりの安全を確認すると、餌があるベランダのテーブルに降りてきて、ついばみはじめます。それに呼応するように仲間たちがやってきて、ひしめき合うようにして食べるのです。そこへヒヨドリが飛来することがあり、その時スズメは一瞬飛び立つのですが、しばらくすると戻って、一緒に仲よく食べています。

 このような光景を見ていると、人間はスズメのように、一人じめせず、また、異質のものが入っても排除することなく、「ともに」相手の立場を認め合いながら生きているだろうか、と考えてしまうのです。

 「他人のわがままはゆるせない 自分のわがままはあたりまえ」

 あるお寺の掲示板で見たことばです。まさに、自己中心的に生きている姿が表現されていると思われ、自分のこころを見とおされているようでもありました。また、そういうこころからは、他に思いを寄せたり、寄り添うというこころは起こってこない、そんなことを思うことでした。

 私たちは、一人で大きくなった、自分の努力で困難な道を歩んできたと思いがちです。しかし、よく考えてみると、さまざまなご縁によって生きていることに気づくのです。
 「我あるが故に彼あり、彼あるが故に我あり」ということばも、そのことを示していると言えます。

お育てにあう

 よく、「お育てをいただく」「お育てにあう」といいます。「育てる」ではなく、育てはいただくもの、育ては遇(あ)うもの、という言い方に深いご縁が感じられます。もし、そのような思いの中で生きていくとすれば、スズメが他の鳥とも仲よくしているように、ともに、お互いの立場を尊重しながら生きていける世界が開けていく、そのように思うことです。

 ともかく、鳥たちの姿、そして私の内面が思い知らされるとき、あらためて、「ともに」「一緒に」ということばが新鮮な輝きをもって迫り来るようです。

 私は最近、病をえたのですが、その時、主治医から「一緒に頑張りましょう」と言われました。医師と患者の間に大きな断絶を感じていたところへ、このことばです。安心したというより、感動さえ覚えたことでした。

 人間は一つのことばでこころが揺らいだり、安堵(あんど)したりするものだと思いながら、相手のことを思うこころは、ことばを発しなければ伝わらないということも知らされる思いでした。

 ところで、「ともに」ということばは、やはり、上に立って見おろすような眼からは出てこないことばだと言えます。釈尊が人々の悩み苦しみをお聞きになる姿も同様です。つまり、釈尊は指導的態度をとっておられないと言いたいのです。世の中は無常だ、人間の命はいつ終わるかわからない、とただ教え諭すのではなく、聞く者のところに降りてきて悩みを聞いておられるのです。

 このことは、親鸞聖人にも言えます。膨大な文献をみられ、著述も多く、私が教えてあげるからと言われても当然と言えます。にもかかわらず、その態度は全くなく、ともにみ教えを聞く立場で一貫しておられたということです。

 私には、いま一つこんな経験があります。95歳になるご婦人が住んでおられる家の法事にお参りしたときのこと、その日は、近くに住む妹さんも来ておられました。おつとめに続いて御文章を拝読し、法話に移ろうとしたとき、その方が妹さんに「死んだらどうなるのかなあ」と尋ねられたのです。すると、妹さんが、それはご院家さんに聞いてみたら、と返されました。その時、その方が言われたのは、「わかろうかい」(わかるはずがない)のひと言でした。私はそのことばを聞いて、だからね「ともに」聞かせてもらいましょう、と結んだことでした

(本願寺新報 2021年04月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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