読むお坊さんのお話

助けるという言葉 -南無阿弥陀仏には私を育てるはたらきがある-

寺澤 真琴(てらさわ まこと)

布教使 滋賀県日野町・清徳寺住職

不安の拡大は一瞬

 「あなたを必ず助ける」という「はたらき」が言葉となったのが、南無阿弥陀仏です。「はたらき」ですから、遠くで静止しているのではなくいつも躍動しています。人間の言葉ではなく仏さまの言葉ですから嘘(うそ)はありません。また、思いつきではなくて、ちゃんとお経(きょう)によって証明された、根拠のある言葉です。つまり、聞けば助かる言葉なのです。

 でも私たちは、言葉なんかで助かるわけがないと、心のどこかで思っていないでしょうか。「おはよう」とか「さようなら」とか、私たちが日常に使っている、人間の能力のひとつにすぎない言葉で、私が助かるなんて、そんな話があるわけないと。聞けば助かる言葉を聞くことができないのが私たちなのです。

 どうも救いの言葉というのは、届きにくいようです。それは、そもそも私たちは、この世界に私を救うものがあるということを知らないで生きているからかもしれません。知らないものには名前がありませんから。この世に私を救うものなどない、頼りになるのは自分だけだと思っていたら、救いの言葉は私を素通りしてしまうでしょう。

 それにくらべて不安の言葉、恐怖の言葉の何と届きやすいことか。1年半前、未知のウイルスによる病気が報道されはじめたころ、病気が広がるのも思いのほか早かったのですが、不安の拡大は一瞬のことでした。不安はウイルスで広がるのではなく、言葉で広がります。メディアやネットに乗った不安の言葉は、あっという間に世界を駆(か)け巡りました。

 あるお家のお仏壇へお参りにうかがったら、皆さんがそろって暗い顔をしておられたことがありました。さっきまで見ていた報道番組で、悲観的なニュースばかり聞いたのだそうです。

 たぶんニュースで語られた悲観的な予測と、現実で起こっていることとの区別が一時的につかなくなっておられたのだと思います。実際にはまだ何も起こっていないのに、多くの人を不安に陥(おとしい)れる。そんな力が言葉にはあったのです。

 食料品や日用品、マスクなどがお店の棚から消える、ということもありました。「効く」「足りない」といった言葉に突き動かされたのでしょう。

 「人間をうごかす二つのてこがある。それは恐怖と利益(りえき)だ」と言った人がいたそうですが、その通りのことが起こっていました。私もその渦中にいました。

日常に救いの言葉

 あらためて言うまでもないことですが、この不安や恐怖は、言葉によってもたらされたものです。私たちは病気や刃物だけでなく、言葉にも傷つくのです。人を傷つける力があるのだから救うこともできるはずだ、というのはちょっと無理があるかもしれませんが、言葉の本質は、私たちが考えているよりもはるかに大きいというのは同意してもらえるでしょう。

 それでは救いの言葉はどこにあるのでしょうか。人間同士で、誰かの言葉で助かったという経験は、案外多いのではないかと思います。悩んでいるときの友人や家族のひと言、病気になったときの医師や看護師の言葉。そういうものと出会うことで、たとえ状況が改善されなくても、自分の存在に意味を見つけることができたら、それは言葉に救われたということになるでしょう。日常の中にも、救いの言葉はあるのです。

 しかし、仏教の救いは、私たちの希望が叶(かな)うことや、思いが満たされることとは違います。生と死を一望するような、自と他の壁を突破するような世界に目覚めさせようというのが救いです。そんな世界のことは、考えることも願うことも難しいでしょう。私のほうでイメージできないのですから、「必ず助ける」と言われても最初は素通りです。

 南無阿弥陀仏には、私を育てるはたきもあるのだと、親鸞聖人はおっしゃいます。素通りしていた救いの言葉は、やがて私にいろいろな気持ちを起こさせます。あるときは問題意識、時には安らぎ、あるいは好奇心。この変化が、その一つ一つの出来事が、私を育てるはたらきそのものです。私の描き出した世界に安住することなく、常に私を変革し続ける。そして私に浄土への道を歩ませる。これが南無阿弥陀仏という言葉です。

(本願寺新報 2021年07月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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