友のことを想う -いま、お浄土から私を導いてくれている-
大田 利生
勧学 広島県江田島市・大行寺住職

友達の三要素
秋の深まりとともに思い出すことがあります。すでに60年も前のことになりますが、その頃、龍谷大学大宮学舎の寮で生活していました。ちょうど今の時期、故郷から15キロ入りの箱でみかんが届いていました。早速、隣の友達にも伝え、夜が更(ふ)けるまで箱を囲み談笑しながら数人で食べるのです。おそらく、おいしいなあと言いながら口にしていたのだと思います。気がついてみると、底に2、3個しかありません。一晩で箱は空になっていたということです。
いま、一緒だった友のことを思い出すのですが、すでに仏典にも友について語る個所があり、次のように記されています。
朋友について三種の要素あり。一には過(あやま)ちあるをみればすなはち相(あい)さとす。二には、好(よ)きことあるをみれば、深く随喜(ずいき)を生(しょう)ず。三には、苦危(くき)にあるとも相すてず。
三つがそろって真の友といえるのだと言っているとも受け取れます。
一については、「見て見ぬふりをしない」ということばによっても置き換えることができるでしょう。いま、机上には広島の友達からの葉書があります。重い内容の文がつづられています。その一節に、「見て見ぬふりをする社会の流れに私も影響を受けているかもしれない。心しなければならない」と認(したた)められています。友の深くて厳しく生きる姿にふれる思いがすることでした。悪いところがあればそれを指摘してあげるのが親切というものだとも言います。
二つ目の随喜するということもむずかしいことです。褒(ほ)め合うといってもいいのですが、悪口を言ったり、批判はよくしますが、人を褒めることはなかなかできないとも言います。双頭(そうとう)、共命鳥(ぐみょうちょう)の話もそうです。片方の鳥がいなければ、私の鳴き声が一番美しいと思う。そこにはねたみのこころしかありません。共に喜び合える関係こそ、本当の友と言えるのでしょう。
三つ目の要素も、一、二のそれと繋(つな)がっているように思えますが、友が危険な状況に置かれているとき、決して見捨てることをしない。常に寄りそい、できるだけのことをして助けてあげようとする。これが友と言われる要件だというのです。
このような三要素を考えるとき、それは人間というより菩薩のこころを思い浮かべる人がいるに違いありません。だから私には関係ないことだと言ってはいけないと思います。
たがいに仏道を
私たちは、常に自分を中心に置いて、コチラからアチラを眺(なが)めています。しかし、アチラからコチラを見る方向もあるということです。そういう方向からは、他の立場を認め合い、思いやりのこころも起こってくるということでしょう。
さて、はじめに述べた友のこと、同じ建物の中で一緒に生活していると、時に兄弟以上の仲を感じることもありました。ただ、生まれた地域、育った環境、趣味、そして将来に描く人生もみんな違うのですから、共に過ごすことはもともと無理があるというべきかもしれません。
そう思いながらも、当時を回顧して、その友達がいなかったら龍大をやめていただろう、現在、こうして生きていられるのは、寮で友に囲まれた生活があったからだ、と今に至るまで思っているのです。それは、友と呼んでいる一人一人に朋友の三要素がそなわっていたからにほかならないからです。
後にそのわれわれのグループは「あくいふ会」と名づけられることになりました。もちろん、悪友とは善友のことです。
ただ、残念なことは、すでに仲間のうち3人が浄土にかえってしまっていることです。
聖覚法印(せいかくほういん)の『唯信鈔(ゆいしんしょう)』には、「われおくれば人(ひと)にみちびかれ、われさきだたば人をみちびかん。生々(しょうじょう)に善友(ぜんぬ)となりてたがひに仏道を修(しゅ)せしめ」(註釈版聖典・千356ページ)とあります。
友はいまお浄土から私を導いてくれている、そんな思いがしてなりません。また、あの時、あんなことがあった、こんなことで夜を徹して議論をした、などと思い出すたびに、過去と現在が結ばれて、友に会っているような気になるのです。友から多くのことを教えられ、生きる力をもらったことは確かです。しみじみ回想する秋の夕暮れです。
(本願寺新報 2021年10月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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