肩こりと煩悩 -まっすぐなものにゆがみを知らされる-
高田 文英
龍谷大学教授 福井県鯖江市・西照寺衆徒

肩こりの原因
以前、テレビで「肩こりの原因は脳の勘違い」という番組がありました。どういうことかと思って見ていると、肩こりのひどい人が何人か登場し、スタッフの人から「この壁の前で、まっすぐに立ってください」と言われます。
言われた人は、背筋を伸ばしてまっすぐに立ちます。しかし実際には、その人の後ろの壁に引かれたまっすぐな線と比べると、どの人も右か左に曲がってしまっています。
スタッフから「今って、まっすぐですか?」と聞かれると、どの人も「はい、まっすぐです!」と自信満々に答えるので、失礼ながらちょっと笑ってしまいました。ご本人は自分の姿勢が曲がっていることに少しも気がついていないのです。
では、どうして、まっすぐ立とうとしても、右や左に曲がってしまうのでしょうか。その原因が〝脳の勘違い〟なのだそうです。
脳には大脳基底核という筋肉の動きやバランスを調整している部位があるそうですが、特定の姿勢が続くと、大脳基底核は、その姿勢を正しい姿勢と思い込んでしまうのだそうです。そして、この思い込みにより姿勢のゆがみが固定化されて、慢性的な肩こりになるというわけです。
では、どうしたらよいのでしょう。まずは正しい姿勢を知り、自分の姿勢のゆがみに気がつくことが第一だそうです。ただし、一度気がつけば一丁あがりというわけではありません。姿勢のゆがみの元にある認知のゆがみ、脳の勘違いは、すぐに修正できるわけではないからです。
そうしたわけで、番組では普段から自分で鏡を見たり、他の人に指摘してもらうなどして、勘違いしている脳に「これが正しい姿勢だ」と、繰り返し意識させることが大切だと解説されていました。脳の認識って案外あてにならないものですね。
煩悩なくならずも
この肩こりの話を聞いて、ピンと来られた方もあるかもしれません。そうです、仏教の〝煩悩から苦が生ずる〟という教えと、よく重なりますね。
煩悩とは、正しい道理にあわない偏(かたよ)ったものの見方・自己中心的な欲望です。お釈迦さまは、じつはこの煩悩という私たちの内部にある認識や欲望が、私たち自身を苦しめているやっかいな原因なのである、その事実に目覚めよと教えられました。
さまざまな原因や条件に左右され、思うようにならないのが私たちの人生です。その人生を「思うようにならなければ幸せではない」「思うようになって当たり前」と受けとめるのではなく、そのままが私たちの大切な人生と受けとめなさいと教えられたのです。
もちろん、肩こりの話と同じく、こうした仏教の教えを聞いたからといって、私たちの偏った自己中心性が直ちになくなるわけではありません。親鸞聖人が、私たちの煩悩は「まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない」(現代語版『一念多念文意』37ページ)とお示しになられたとおりです。
しかし、たとえ煩悩はなくならなくても、まっすぐなものを知ることで、曲がっている私のありさまに気がつくことはできると言えるでしょう。親鸞聖人の師の法然聖人は、私たち凡夫は煩悩を滅することはできないが、煩悩を「心のまら人(うど)(客人)」とし、お念仏を「心のあるじ(主)」としなさい。煩悩を生活の中心とするのではなく、お念仏を生活の中心としなさいと教えられました。
お念仏というまっすぐな線を通して、私たちの煩悩のありさまを知らせていただく。その日々の気づきの繰り返しが、私たちの曲がった人生に一つの方向性を与えてくれるのではないでしょうか。
以前、ご主人が大病を患(わずら)い、長年その介護をされているご婦人が「最初はどうして私だけがこんな目にあわねばならないのだと激しい怒りが湧(わ)いてきました。主人が回復しなければ、私の人生ももう終わりだと思っていました。しかし、今は亡き母が、お念仏のみ教えを聞き続けていきなさいと言ってくれました。11年がたち、よいことも悪いことも、全てお陰さまと少しずつ思えるようになってきました」と語ってくださいました。
私たちにとってのまっすぐな線、それがお念仏のみ教えです。あらためて日々の生活の中心にお念仏の教えを置かせていただきましょう。
(本願寺新報 2021年10月20日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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