仏さまが見つめる私 -お念仏を称えながら精一杯生かさせていただく-
髙梨 顕浄
布教使 愛知県豊川市・誓林寺衆徒

片時も離れずに
童謡詩人の金子みすゞさんが書かれた「お仏壇」という詩があります。その一節にこんな言葉が出てきます。
忘れていても、仏さま、いつもみていてくださるの。
だから、私はそういうの、「ありがと、ありがと、仏さま。」
金子みすゞさんらしい優しく平易な言葉の中に、仏さまとしっかりと対話をしながら生きておられた姿がにじみ出ています。そして、その優しい言葉の中に、浄土真宗のみ教えを聞く私たちにとって、とても大切な阿弥陀さまの受けとめが示されているように感じます。
それは、「忘れていても、仏さま、いつもみていてくださるの。」という言葉に表されているように、阿弥陀さまは、私が阿弥陀さまを思っていようと忘れていようと、この私のことを片時も離れず見ていてくださる仏さまなんだということです。
そのような仏さまがいてくださることを聞き受けていくとき、私は「何かを見つめていくいのち」でありながら、「仏さまに見つめられるいのち」でもあることに気がつかされます。これが実はとても大切なことなのです。
私たちは普段、「見つめる側」に立って日常生活を送っています。その私が見つめる世界は、たとえ代わり映えしない景色や日常であっても、決して同じ瞬間はなく、絶えず移り変わっています。それは物質的なことだけではなく、私の心もそうです。私はその絶えず移り変わる心を通して物事を見つめていますから、その移ろう心を通して見える世界もまた常に変化していきます。
たとえば、抜けるような青空を見たとき、心も晴れやかであれば「気持ちいい空」になりますが、心に影が差すようなことがあれば、どれだけキレイな青空でも曇って見えてしまいますし、場合によっては不快に感じることさえあります。そしてそれは、仏さまを見つめるときも同じです。
ダイヤのような心
私が阿弥陀さまを見つめるとき、心から「有り難い」と思うときもあれば、どれだけご法話を聞いてもなかなか「有り難い」と思えないときもあります。そして、その移ろいやすい眼差(まなざ)しは、「見つめる側」であるはずの自分自身にも向けられます。
つまり、私は自分自身のことさえも見え方が絶えず変わっていくのです。たとえば、自分の思う通りに事が運べば「自分がしてきたことは正しかったんだ」と自信に満ちあふれることもありますし、逆に、思い通りにならないと、「なんて私はダメなんだ」と自分自身に落胆するときもあります。そんなふうに、私は自分の心が見つめる世界の中で右往左往しながら生きています。
そんな中、阿弥陀さまは私をどのように見つめてくださっているのでしょうか。阿弥陀さまは私のように心がコロコロと変わることなく、どんなときも私のいのちを「尊い尊い大事ないのち」として見つめ続けてくださっています。
それは、私が阿弥陀さまを「有り難い」と思っているときも思えないときも、阿弥陀さまを思っていようと忘れていようと、自分に自信があろうとなかろうと、決して変わることはありません。
この阿弥陀さまの決して変わらないいのちの視点の中で生きていくとき、私は何があっても決して揺らぐことのない「いのちの尊さ」をいただくことができるのです。
そんなふうに、私自身が「阿弥陀さまの見つめる私」として生きていくことが、浄土真宗の「ご信心」のすがたなのでしょう。阿弥陀さまの眼差しは、決して揺らぐことがありません。だからこそ親鸞聖人は「ご信心」のことを「金剛心(こんごうしん)(ダイヤモンドのように堅く砕(くだ)けない心)」と示してくださったのです。
そして、この阿弥陀さまの眼差しに出遇(あ)うことができたからこそ、思い出したときには「ありがと、ありがと、仏さま」と、阿弥陀さまに手を合わせ「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を称(とな)えるのです。
絶えず変わり続けるこの世界だからこそ、どんなときも変わらない阿弥陀さまの眼差しの中、お念仏を称えながら、「阿弥陀さまに見つめられる私」として精一杯生かさせていただきたいと思います。
(本願寺新報 2021年11月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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