読むお坊さんのお話

お念仏のさまたげ -不自由な生活に、お念仏できるありがたさを思う-

櫻井 法道(さくらい ほうどう)

小樽市・新光保育園園長 広島市・正向寺衆徒

遺徳しのぶ報恩講

 私が園長を務める新光保育園は、北海道の小樽別院の保育園です。別院では、降雪を前に10月13日から16日まで、報恩講法要が営まれました。

 昨年同様、新型コロナの感染防止として、マスクの着用はもとより、座席の間隔を広げたり、アクリル板で仕切るなど、徹底した対策をとりました。

 マスクの生活が長引き、何かと不自由な中でご法要をつとめてお念仏を申していますと、「さまたげ」ということが思い浮かびました。そして、宗祖親鸞聖人のご生涯でお念仏の「さまたげ」となったことに思いをはせました。

 報恩講は、親鸞聖人90年のご生涯のご遺徳(いとく)を偲(しの)び、ご恩報謝の心を再確認させていただく場です。ご恩を偲ばせていただきながら、今こうして「お念仏を申す」ことができる念仏者としての矜持(きょうじ)・有り難さを再確認してみたいと思います。

 親鸞聖人のご生涯の中で、お念仏を申すことの「さまたげ」となったものとして、私は三つを思い浮かべました。

 一つは、旧来の仏教教団からの批判・弾圧です。親鸞聖人35歳のとき、時の国家権力によって「念仏停止(ちょうじ)」となり、師の法然聖人、そして親鸞聖人ご自身も流罪(るざい)となった「承元(じょうげん)の法難(ほうなん)」です。

 後に親鸞聖人は、主著である『教行信証』に「主上(しゅじょう)(天皇)臣下(しんか)、法(ほう)に背(そむ)き義(ぎ)に違(い)し」(註釈版聖典471ページ)と、厳しくその念仏弾圧を批判されています。

 この『教行信証』が執筆された年(1224年)をもって、浄土真宗立教開宗(りっきょうかいしゅう)の年とされています。

 承元(じょうげん)の法難の後も、旧来の仏教教団からの弾圧は続きました。

 親鸞聖人が晩年にお書きになった「悲嘆述懐和讃(ひたんじゅっかいわさん)」には、「外儀(げぎ)は仏教のすがたにて 内心外道(ないしんげどう)を帰敬(ききょう)せり」「仏教の威儀(いぎ)をもととして 天地(てんち)の鬼神(きじん)を尊敬(そんきょう)す」(同618ページ)と厳しく批判されています。

 二つめは、親鸞聖人が関東におられた頃、その命を奪おうとした「板敷山(いたじきやま)の弁円(べんねん)」のお話を思い浮かべました。

 山伏(やまぶし)の弁円は、加持(かじ)・祈祷(きとう)で人々から信仰をあつめていましたが、日に日に訪れる人が少なくなり、その原因は親鸞聖人の説くお念仏だとして激しい怨(うら)みをいだきます。そして聖人の命をねらうのですが、親鸞聖人に会ったとたんに帰依(きえ)し、明法房(みょうほうぼう)という名前をたまわりました。

 大自然の中で生きる人々は、占(うらない)いやまじない、呪(のろ)いや祟(たた)りといった迷信・俗信(ぞくしん)をたよりに、日を選び、吉凶(きっきょう)をうらなって生きていました。

 それ対して、親鸞聖人が説かれる本願念仏のみ教えは、本来の仏教に根ざした生き方、迷信や俗信に惑(まど)わされることなく、一日一日を大切に暮らす生き方です。

 そういった念仏者の生きざまを思うとき、現在の私たちにも、社会にはびこる迷信や俗信が、お念仏を申すことのさまたげになっていると言えるでしょう。

「ただ念仏して」

 三つ目は、当時の地方権力者「領家(りょうけ)・地頭(じとう)・名主(みょうしゅ)」です。晩年の親鸞聖人のお手紙(ご消息(しょうそく))には、「この世(よ)のならひにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家(りょうか)・地頭(じとう)・名主(みょうしゅ)のやうあることにてこそ候(そうら)はめ」(同787ページ)と記されています。

 当時、阿弥陀仏以外の仏・菩薩や神々を軽んじていると言いがかりをつけて、お念仏をさまたげる人々がいました。ところが親鸞聖人は、「念仏する人々は、念仏をさまたげようとする人を哀(あわ)れむ心を持ち、気の毒に思って心から念仏を称(とな)え、その人を助けなければなりません」(現代語版『親鸞聖人御消息』87ページ)と記され、たとえ念仏者を弾圧する人々であっても、お念仏を申して助けるのですと諭(さと)されています。

 このように、親鸞聖人は生涯にわたってお念仏の「さまたげ」となるものを課題として、本願念仏を弘めるためにご苦労されました。それはまた、本願寺の長い歴史にも重なってくると思います。

 親鸞聖人は『歎異抄』第2条で、関東から命がけで聖人のもとを訪れた門弟(もんてい)に対して「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰(おお)せをかぶりて、信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり」(註釈版聖典832ページ)と言いきられています。

 親鸞聖人がご苦労された「さまたげ」のことを思いながら、お念仏を申すことのできる身の有り難さを味わう今日この頃です。

(本願寺新報 2021年11月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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