読むお坊さんのお話

阿弥陀さまがご一緒です -私の苦しみ悲しみを、私以上にご存知のお方-

尾崎 道裕(おざき みちひろ)

布教使 奈良県下市町・實原寺住職

長続きしない喜び

 5歳になる私の娘が、かわいらしいお花の柄が入った折り紙を2つ、私に渡してくれました。裏返すと、それぞれに質問が書かれてあります。

 「ほねはなぜしろいの?」 「ひとはなぜいきているの?」

 最近いろんなことに疑問をもつようになってきた娘ですが、今回のものは難問です。

 「骨が白いのはカルシウムでできているからだよ」と安易に答えてしまいましたが、
よく調べますと、実はカルシウムだけだと銀色だそうで、そこにリン酸が化合することで白くなるのだそうです。子どもの質問だからといって、簡単に考えたらだめですね。

 しかし、もうひとつの質問は安易に答えを出すこともかないません。そこで、世間ではどのように答えているのか調べてみると、子どものさまざまな疑問に答えるラジオ番組がありました。

 「私たちはなぜ生きているの?」という小学生の女の子の質問に対して、「それはあなたが幸せになるためですよ」と答えられていました。

 確かに、この人生に幸福を求めていくということは至極当然のことです。

 哲学者のアリストテレスは、幸福を増加させるものが善とみて、幸福こそが、われわれのあらゆる行いの目的であると考えました。つまり、生きている意味は幸せになるということです。

 一方、仏教では人生は「苦」であるとして、その原因は私の欲望・煩悩(ぼんのう)にあると説きます。欲望が満たされれば、いっときの幸福は得られますが、その喜びが長く続くことはありません。たとえ欲しいものが手に入っても、持っていることによって失うことが心配になりますし、なければないことによって苦しみます。

 欲望を満たそうとするかぎり、いつまでも不安や欠乏の苦しみから逃れることができません。

私のいのちの味方

 阿弥陀如来が本願を起こされた理由は、迷い苦しみのなかにある私たちをご覧になり、深く悲しまれたからであると説かれています。

 欲望によって自らを苦しめ、その苦しみの連鎖を繰り返し続けている私を、欲望・煩悩に振り回されることのない「仏」としてみせると、阿弥陀さまは立ち上がってくださいました。

 私たちは、「勝ち組」「負け組」という言葉があるように、他人と比べて優劣を考えて生きています。それは、自分が何をなしたか、自分がどう思われるかに価値を見いだしていく在り方です。

 しかし、阿弥陀さまのおこころに触れさせていただくなかに、私に何がなされているか、そこにはどのような思いが届いているかを訪ねていくというこころが育まれるともいえるのではないでしょうか。

 法座で布教にうかがったとき、「のどの痛みに効(き)くそうですから」と、坊守さんが特製ドリンクを用意してくださいました。

 月参りにうかがったご門徒宅では、息子さんを交通事故で亡くされた元タクシー運転手の方が、帰り際に必ず「気をつけて運転してや」と声をかけてくださいます。

 5年前に亡くなった父の遺品の中に大切にしまわれていた私の小学校時代の通信簿。

 私を大切に思ってくれている方がいます。私のために泣いてくれる方がいます。

 そして、私を決して見捨てない方がご一緒です。

 それが阿弥陀さまです。

 私の苦しみ悲しみを私以上にご存じのお方が、そして私の歩みを「仏」への歩みとしてくださる方がいつもご一緒です。

  如来の作願(さがん)をたづぬれば
  苦悩の有情(うじょう)をすてずして
  回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
  大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり
     (註釈版聖典606ページ)

 阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」となって、私に入り満ちてくださり、私が称(とな)えるお念仏となって喚(よ)び続けてくださいます。

 「あなたの存在そのものを護(まも)るよ」

 不安にさらされて生きていかねばならない私の存在そのものを徹底的に肯定し、常に私のいのちの味方でいてくださる方がご一緒です。

 私なりに娘の質問への答えがわかったように思います。

 真の幸福とは「今」の自分を喜べるということではないでしょうか。私を私のまま支えてくださるものに出遇(あ)う中に、その思いが現れるのだと味わいます。

(本願寺新報 2021年12月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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