読むお坊さんのお話

親のよび声 -決して一人じゃない。阿弥陀さまがご一緒-

舟川 智也(ふなかわ ともや)

布教使 福岡県行橋市両徳寺住職

安心をいただく

  「人間の心は、何に出会うかによって変わってゆくもの」と教えてもらったことがあります。

 確かに今、私たちは新型コロナという見えない未知のウイルスと対面する中で、大きな不安の渦中にあります。それでも毎年変わらず、街並みを彩る桜の花を眺めている時や、純真無垢(むく)な赤ん坊の笑顔を見た時には、心に喜びが湧いてきます。

 考えてみると、私たちは自分がその感情を抱いているつもりですが、その一つひとつの感情は、出会う出来事によって生まれてきているのです。私はここに、一体なぜ私たちは仏法をお聴聞することが大切であるかの答えの一つがある気がします。

 人は不安に駆られている時、「大丈夫、大丈夫」と、自分に言い聞かせます。しかし、どれほど自分で自分に言い聞かせても、安心にはつながっていかないものです。むしろ、言えば言うほど不安が深まっていくくらいです。

 ところが、「心配ないよ、大丈夫だよ」と呼びかけられた時、ふっと楽になった経験が皆さんにはありませんか?

 私たちは出会ったものの中に安心をいただいて生きているのです。だからこそ、「いつでもどこでもどんな時でも、どんなあなたでも、決して見捨てはしないよ、共にいるよ」というアミダさまからのよび声を聞かせていただくことが大切なのです。

 そのアミダさまからのよび声は「ナモアミダブツ」と、私に届いてきます。この「ナモアミダブツ」とのよび声は、昔から親のよび声と言われてきました。

 「親のよび声」とは、「お父さんだよ、お母さんだよ」という親から子どもへ向かった呼びかけです。ただ、このことが、私はスッキリと理解できませんでした。

 というのも、わが家にも子どもが3人いますが、普段の生活の中で、子どもの名前を呼びながら子育てすることはあっても、「お父さんだよ」などと言う機会は滅多とないからです。

 ただ、このことを味わえた出来事がありました。それは今から5年ほど前のことでした。

「ここにいるよ」

 当時、わが家は、住職である私と坊守、そして2歳だった双子の女の子、みさきとゆづきの4人暮らしでした。

 ある日の晩、4人並んで寝ていたのですが、坊守がトイレに起きて部屋を出ていきました。すると、それまで寝ていた子どもの一人、ゆづきもそれに気がついたのか、起きてしまったのです。

 ゆづきは隣をパッとみると、いたはずの母親がいなくなっているのに気づき、布団から飛び出して部屋の外で「お母さん、お母さん」と叫び始めました。それに気がついた母親は慌ててトイレから駆け戻ってきて、ゆづきをギュッと抱きしめながらこう言ったのです。

 「ゆづちゃん、お母さんここにいるよ。お母さんここにいるよ。どこにも行ってないよ。大丈夫よ」

 この一言を聞いた時、ハッとしたのです。普段、私たちは子どもを育てるとき、「ゆづきちゃん、お着がえしなさい。歯をみがきなさいよ」と、子どもの名前を呼びながらあれこれ指図します。しかし、ただ一点、子どもに安心を与えようという時だけは、「お母さん、ここにいるよ」と、親は親自身の名を名のり、その名を通して子どもに安心を与えようとしているのです。

 「ナモアミダブツ」という名のりもこれと同じ心なのではと思ったのです。つまり、「あなたを救い、護り、導いていく親はここにいるからな。必ず救う、我にまかせよ」と私の上に安心を与えようと届いてくる言葉が「ナモアミダブツ」なのです。そして同時に、その心を受け取った子どもの口からこぼれてくるのもまた「お母さん」の一言です。その一言は「親がここにいた」という安心からこぼれ出る一言です。つまり、ナモアミダブツは「必ず救う、我にまかせよ」という親の呼び声であると同時に、「親がここにいた」と安心し喜んだ心なのです。

 新型コロナの感染拡大問題があってもなくても、老いや病、死の不安、大切な人との別れなど、私たちの人生に不安の種は尽きることがありません。そんな不安多い人生を生きている私たちではありますが、決して一人ではありません。阿弥陀さまがご一緒です。

(本願寺新報 2021年02月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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