読むお坊さんのお話

再び出会える世界 -安心できるいのちをいただいたからこそ少しでも-

巖后 顯範(いわご あきのり)

臨床宗教師 岐阜市・願照寺衆徒

この世の卒業式

 「もうすぐお別れなの...」

 幼稚園から帰ってきた年中組の息子が寂しそうに話し出しました。親としてはドキッとします。

 「今日は何々したよ!」と笑顔で勢いよく帰ってくることが多いのですが、この日はいつもと様子が違います。話をよく聞いてみると、いつも幼稚園の通園バスで仲良くしてくれる一つ年上の年長組のお兄さんが、この3月で卒園することを寂しがっているようでした。

 「今日は何が楽しかった?」と幼稚園の出来事をたずねると、しばしば名前がでてくるお兄さんです。電車が好きな息子と気が合い、行き帰りの通園バスではいつも近くの席に座って、電車トークをしながら帰ってきます。

 ただ、「卒園してお別れ」と言っても、近所に住んでいるお友達ですから、入学する小学校は同じです。「幼稚園は卒園でお別れだけど、小学校に入学したら、また一緒だよ」と息子に言うと、うれしそうに安心して、寂しい気持ちがやわらいだように見えました。

 そんなやりとりから、ふと思い出したのは、祖父のお通夜のことでした。お通夜のあとの通夜振る舞いでは、集まった親戚が食事をしながら、祖父にまつわるいろいろな思い出話に花を咲かせていました。

 「こんな人だったね」「あんなことがあったね」と祖父を偲(しの)びながら、お浄土に往生して仏さまになった祖父を思い、またいつかお浄土で会えることを喜びました。別れという寂しさの中にも、私たちに開かれたお浄土のあたたかさを感じたことでした。

 おそらくその感覚が、卒園するお兄さんを見送り、いずれ小学校での再会を期待する息子の気持ちとつながったのかもしれません。お通夜は卒園式や学校の卒業式と似ているなと私は思いました。

 卒業式では学生生活を共に過ごした日々を振り返りながら、名残惜しくも新たな目標に向かって旅立っていき、そしてまたいつかお互い成長して再会しようというような決意が見られます。

 お通夜では、故人が自らを振り返るわけではありませんが、ご縁のあった方々が夜を通して、故人の人生やその人柄を語って振り返りながら、今度は故人が仏さまとなってお浄土から私たちに何を願われているのか、また、いつの日かお浄土での再会に思いをはせます。お通夜は「この世の卒業式」なんて言えるのかもしれません。

かならずかならず

 親鸞聖人は晩年、お弟子に宛てた手紙の中でこのように記されています。

 「この身(み)は、いまは、としきはまりて候(そうら)へば、さだめてさきだちて往生し候(そうら)はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候(そうろ)ふべし」
  (註釈版聖典785ページ)
「私は今はもうすっかり年老いて、もうこの先は長くはなく、あなたよりも先に往生するでしょうから、浄土でかならずかならずあなたをお待ちしております」という内容です。「かならずかならず」と繰り返されるところに、親鸞聖人が抱く安心感とお弟子にむけたあたたかみを感じます。私たちには再び会うことのできる世界がひらかれているのです。

 この世の人生を全うした後は、今度は仏さまとしての世界が広がります。お浄土という世界があり、そして、阿弥陀さまによるすくいのはたらきにより、その世界に生まれていける私であることには、有り難さとご恩を感じずにはいられません。

 卒園に際して「お別れが寂しいな」と言っていた息子に、また小学校で会えることを伝えた後、こんなことも言っていました。

 「はやく小学校のお兄さんになれるよう頑張る!」
 「なにも頑張らなくても時期が来れば小学生になれるのに...」と心の中で思いましたが、待ってくれている人がいる世界に行くまでに、しっかりと今できることを全うする心意気に、「自分の生き方はどうなのか?」と問われたような気がしました。

 阿弥陀さまのすくいによって、お浄土に生まれさせていただくと聞かせていただきますが、すくいに対して単に甘えるだけではなく、安心できるいのちをいただいたからこそ、少しでもそれにかなった生き方をしていきたいと思うことでした。

(本願寺新報 2022年03月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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