闇を照らす光にあう -愚かさを知らされ、阿弥陀さまと出あっていく-
西原 祐治
仏教婦人会総連盟講師 千葉県柏市・西方寺住職

宝くじに当たった
阿弥陀さまのさとりの世界を「浄土」といいます。その反対は「穢土(えど)」です。穢土とは、煩悩にけがされた世界、この世のことです。しかし、私たちは自分が煩悩にけがれているとは思っていません。
私たちは物事を見るとき、自分の経験や思惑といったフィルターを通して物事を見ています。
たとえば、「黒い豆と白い豆を混ぜて、一つの鍋で煮ました。煮上がったので黒豆と白豆に分けましたが、2、3秒もかからなかった。なぜでしょうか」というクイズがあります。
「黒豆と白豆を混ぜる」というのは、黒豆と白豆が「半分ずつ」という思い込みを誘い出します。「黒豆は1粒だった」というのが答えです(織田正吉著『笑いのこころ ユーモアのセンス』より)。
人は、常に思い込みをもって物事を考えてしまいます。何ごとにおいても先入観が、正しい判断の障壁となるということでしょう。煩悩のなせるわざです。
私たちは毎日、かけがえのない命をいただいて生きていますが、あって当たり前だと思っていることも、私の煩悩のなせるわざだといえます。
以前、肺がんを患われて、あと半年という余命宣告を受けたIさんにお話をうかがったことがあります。
私が「今の心境はいかがでしょうか」とお尋ねすると、「毎日がジャンボ宝くじに当たった気持ちです」と返答されました。
「といいますと」とさらにお尋ねすると、「ジャンボ宝くじに当たると、この世で欲しい物が手に入る。いま最も欲しいと思っている1日が、朝目覚めると手の中にある。それはジャンボ宝くじに当たったような気持ちなんです」と言われました。
病院を一時退院された時、「入院している間で、うれしかったことがありますか」とお尋ねしたことがあります。「抗がん剤で味が感じられずに無理やり食べていたら、ある日、ご飯の甘みを感じました。その時、病気が治りつつあるという思いとともに、その甘みに感動しました」とのことでした。
私はといえば、かけがえのない1日を、よかった日、悪かった日と、自分の思いで色づけし、命を養う食べ物を、うまかった、まずかったといって暮らしています。そんな私は、仏さまのまなざしからみれば、煩悩にまみれている姿なのでしょう。しかも、自分が煩悩にまみれていると思っていないこと自体が、煩悩の証(あかし)でもあるようです。
「無明の闇」
少し前、メモ書きを整理していたら、1965(昭和40)年の映画「妻の日の愛のかたみに」のメモがありました。この映画は、歌人の故池上三重子さんの同名手記をもとにして制作されました。あらためて図書館から本を借りてきて読んでみました。
三重子さんは、幸せいっぱいの結婚生活の4年目、悪夢のような多発性関節リウマチに悩まされ、4年で全身の関節が麻痺して寝たきり状態となります。重病にあえいだ三重子さんは、悩み考えた末に、「真に真に彼を愛するならば、私は、積極的に彼の愛を私から引き離さねばならないのだ」と、純粋に彼を愛するが故に、夫の幸せを思い離婚を決断します。
ところが、夫にとってよかれと願った別れでしたが、彼から再婚の話を告げられた時、思いもかけず、自分の心に憎しみが湧き起こってきたのです。
「後の妻の候補についてのあれこれを聞きはじめたとき、羨望(せんぼう)と嫉妬(しっと)と憎悪(ぞうお)が、思いがけなく、むくむくと頭をもたげて、揺(ゆ)り覚(さ)まされる女心を感じた。どこに、いったい私のどこに潜んでいたのであろうか...」
三重子さんは憎しみと嫉妬に1年間苦しみます。そんな自分を「無明(むみょう)の闇」と表現しています。その闇との出会いを通して、自分の愚かさを受け入れる境地が開かれていったのです。
純粋な愛を求め、どれほど相手の幸せを念じても、自分中心というとらわれから離れることはできないということでしょう。
無明(愚痴(ぐち))とはまさに煩悩です。しかし、私たちはその無明の闇を通して、その闇を照らし、抱き取ってくださる阿弥陀さまと出遇(あ)っていくのです。
(本願寺新報 2022年04月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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