読むお坊さんのお話

ナイスチャレンジ -安心のなかで恵まれるやわらかな心-

野呂 靖(のろ せい)

龍谷大学准教授 奈良県葛城市・西照寺衆徒

監督に質問すると

 昨年から縁あって、勤務先の龍谷大学でアメリカンフットボール部の部長をしています。といっても私自身がプレーするわけではありません。格好良くいえばマネジメント担当、率直にいえば名ばかりのお役目といったところでしょうか。

 私は幼い時から運動音痴で、中高生の頃は体育の授業が一番苦手でした。そんな私ですが、大学スポーツの世界に足を踏み入れてみると、意外にも多くの学びがありました。なかでも監督やコーチなど、一流のアスリートでもある指導者の方々から発せられる言葉には、「なるほど」と気付かされることがしばしばあります。

 先日、全国大会を連覇中のチームの監督が来校されました。わがチームは必ずしも成績がよくありません。そこで私はここぞとばかりに、「素人質問で恐縮ですが」と前置きをしてから、「強さの秘訣は何ですか」と率直な質問をぶつけてみました。すると、その方は「学生がチャレンジする環境を作ることです」と話され、間髪入れず、次のように即答されたのです。

 「学生には〝失敗したっていいんだ〟といつも言っています。すべてのチャレンジはナイスチャレンジなんですよ」

 強さの秘訣というと、私はてっきり特別な指導法や練習時間の多さが関係していると考えていました。しかしそうではない。どんなテクニックよりも、学生自らがチャレンジする姿勢こそ大事であるというのです。

 「実は、試合に勝てと言ったことは1回もないんですよ。勝てと言うと固くなってしまうでしょう。そうではなく、自分たちが練習してきたことを全部出してねと言っているんです」

 このように続けられた監督は、「これが指導者の仕事だと思うのです」と静かにおっしゃられました。

 「勝ち負けにこだわるのではなく、自分のなすべきことをなせ」

 この言葉はスポーツだけでなく、教育や仕事などさまざまな場面にも共通するものでしょう。

 私たちはしばしば、「こうありたい」「こうあらねばならない」と考えています。学校の成績や仕事の業績など、私たちの社会では常に結果が求められます。

 しかし、よい結果を出さなければならないと思う、まさにそのことによって、かえって心と身体は硬直し、萎縮(いしゅく)してしまう。そうではなく、こだわりを捨て、自分がいかにいきいきとプレーできるかが大事であるという監督の言葉は、教育の世界に携わる私にとって、「本当にそうだよな」と強く胸に響くものだったのです。

執着して悲しむ

 こだわりを離れたやわらかな心。まさに仏教こそ、その大切さを説き続けてきた教えといえるでしょう。

 お釈迦さまは、「人は〈わがものである〉と執着したもののために悲しむ」という言葉を残しておられます(『スッタ・ニパータ』)。

 あらゆる物事を自分の思い通りにしたいという思いこそ、自らを苦しめるもととなります。とらわれを離れたやわらかな心を育むこと。これが仏教の基本姿勢です。

 一方、そうした柔軟な心の大切さをいくら頭でわかっていたとしても、その実践は必ずしも容易ではありません。親鸞聖人は、やわらかな心はむしろ阿弥陀さまから恵まれることを明らかにされました。

 『教行信証』には、阿弥陀さまの摂取(せっしゅ)の光明に包まれたものは、あらゆるものごとに固執する心が転換されること、すなわち身も心もやわらぐことが示されています。

 日々の生活の中でちょっとしたことで不安になり、落ち着かない私たちですが、「摂(おさ)め取って決して捨てない」という阿弥陀さまのお心に出あうとき、少しずつ自らの心と体の力が抜けた生き方が恵まれてくる。そのように受け止めることができるでしょう。

 「どんなに失敗をしてもいい。失敗もまたナイスチャレンジなんだ」と語る監督のもとだからこそ、選手たちは初めて安心してチャレンジすることができる。そのように捉えたとき、選手たちの活躍は、そうしたしっかりとした安心のなかでこそ育まれたものであったといえるでしょう。アスリートの世界と仏法との不思議なつながりに気付かされたことでした。

(本願寺新報 2022年06月10日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

※カット(え)の配置やふりがななど、WEBサイト用にレイアウトを変更しています。

※機種により表示が異なるおそれがある環境依存文字(一部の旧字や外字、特殊な記号)は、異体文字や類字または同意となる他の文字・記号で表記しております。

※本文、カット(え)の著作権は作者にあります。

一覧にもどる