読むお坊さんのお話

「大丈夫やからね」 -不安に生きる私に届く阿弥陀さまのよび声-

高橋 了(たかはし りょう)

布教使 山口県下関市・専修寺住職

叔父の後を継ぐ

 後継者が不在だった叔父のお寺に入寺して、2年半が経ちました。

 私は山口のお寺の三男として生まれました。お寺に入ることは考えておらず、大学時代、医療や高齢者施設などで人々の苦悩と向き合うビハーラ僧になりたいという志を持ちました。そして、緩和ケアを専門とする京都のあそかビハーラ病院に勤務する機会をいただき、人生の最期に立ち会わせていただく尊い現場で働かせてもらっていました。

 しかし、住職を務める叔父は後継ぎがおらず、肝臓の病気を患(わずら)っていることもあり、私に継いでほしいという思いを聞き、ゆくゆくは山口に行くことを承知しました。

 2年前の2月のことでした。山口で僧侶の研修会があり、叔父と初めて一緒に参加することになりました。京都に住んでいた私は、日帰りの日程で山口に新幹線で向かいました。

 駅で待っていた叔父は「よう帰ってきたのぉ」と出迎えてくれました。久し振りに会った叔父は、大柄だったはずの体がすっかりと痩(や)せ細り、サイズ違いのような大きな背広に身を包み、歩くのが精いっぱいでした。お腹だけが大きく、灯油缶一つ分ほどの腹水を抱えていました。これほどの腹水は、病気が進行し、深刻な状況を物語っています。

 研修会場で、叔父は親しくしている方々一人ずつに私を紹介してくれました。「後を継ぐことになった甥(おい)です。まだ京都におるけど数年のうちには帰ってくるから、どうかよろしく頼みますね」と。

 多くの方の最期に立ち会ってきた経験から、叔父には、数年どころか残された時間があまりないと覚悟しました。

 ビハーラ僧の道半ばでしたが、すぐに入寺することを決心しました。私は、夜遅くに京都へ帰るなりすぐ、連れ合いに叔父の様子を伝えました。隣にはスヤスヤと寝息を立てる幼い息子、そしてお腹の中にはまだ見ぬわが子。私たち家族にとって、一大決心でした。

病院で手を握り

 それから3カ月後、山口へ引っ越しました。叔父は立ち上がるのが精いっぱいの状態でした。お寺でご法事をつとめる日には、法衣に着替えた私に、「そこで一周回ってみなさい」と、まるでわが子を見守るようにチェックしてくれました。しかし、一緒の時間はたったの2週間でした。

 容体が悪化して入院となりました。病室で、今まで触れたことのなかった叔父の大きな手を握りながら、「大丈夫やからね」と声をかけ、「南無阿弥陀仏」とお念仏しました。お念仏は、どのような状況にあっても、「大丈夫やからね」と決して見捨てることなく、人生を丸ごと抱きかかえてくださっている阿弥陀さまのよび声です。

 手を握り、声をかけたその日の夜、叔父は息を引き取りました。人生60年をこの世の一期(いちご)として往生しました。

 叔父と過ごした時間はわずかでした。一緒にお参りへ行くこともかないませんでした。初めてお参りする先々で、おつとめが終わるとご門徒さんが「前住職さまは、あなたが帰ってくることを本当に楽しみにしていたのよ」と、たくさんの思い出話をしてくださいました。叔父が病を押しながらお参りし、私のことをご門徒さんに紹介し、私の帰りを待っていてくれたことを知りました。

 「叔父が期待していたような住職に私がなれるのだろうか」。不安がこみ上げてくることがたくさんあります。一番聞きたい叔父の声は返ってきません。

 でも、その時に、私が叔父にかけた「大丈夫やからね。南無阿弥陀仏」の言葉が、あの病室の風景とともによみがえってきます。あの一言は、そのままこの私にも届いていた阿弥陀さまのよび声で、私が聞かせていただいたお念仏でした。お念仏させていただく中に、私をしっかりと包んでくださる世界が恵まれていたのです。

 思えばこの人生、わが身に起こる全てのことが初めてのことばかりです。一度きりのこの人生、これからのことは誰も予想がつかず、私のいのち、明日のことすら知る由(よし)もなく、不安や悩み、悲しみを抱えながら過ごしています。
このような私を阿弥陀さまは、いつどのような状況にあっても「大丈夫、大丈夫。あなたを必ず救います」と心強く、この私に南無阿弥陀仏と至り届いてくださっています。

(本願寺新報 2022年11月01日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

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