阿弥陀さまがご一緒 -今、この私の上にはたらく南無阿弥陀仏-
花田 照夫
布教使 福岡県桂川町・長明寺住職

常に私を照らす光
おととしの7月のことです。私はたまたま会った息子の同級生のN君に、「夏休みはどこかに行くの?」とたずねました。
当時は新型コロナのために「3密を避ける!」ということが声高に叫ばれていた頃です。私はN君の家の予定を聞いて自分の参考にしようと思ったのです。
N君は「キャンプ行く!」と楽しそうに言いました。
「あ、そうか。キャンプだったらこのご時世にピッタリ」。そう思った私は、さらにたずねました。
「どこのキャンプ場?」
「知らん、わからん」
「キャンプ場じゃなくて、山の中?」
「知らん、わからん」
「何日ぐらい行くの?」
「知らん、わからん」
「行って何するの?」
「知らん、わからん」
何を聞いてもN君は「知らん、わからん」と言うのです。私は少々あきれてしまいました。そして、「そんなんじゃ不安でしょ」と言いました。
するとN君は、意外にも、「ううん、めちゃくちゃ楽しみ!」と笑顔で言いました。
「どうして?」と私が聞き返すと、N君が答えました。
「だって、お父さんが一緒だから!」
この言葉を聞いた時、私はハッとしました。私たちのお念仏のみ教えもそうだなあと思ったからです。
「阿弥陀さまがご一緒です」
浄土真宗のみ教えはさまざまな言葉で語られていますが、この一言に、私はお念仏をよろこぶものの姿が言い表されているように思うのです。
三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)を抱え、自己中心に生き、あてにならないものをあてにし、自分で自分を傷つける。そんな、愚かで恐ろしい私。その私の全てを見抜き、救いを告げてくださったのが阿弥陀さまです。そして、そのお慈悲の光が、今、この私の上に南無阿弥陀仏とはたらいてくださっているのです。
親鸞聖人は「極重(ごくじゅう)の悪人(あくにん)はただ仏(ぶつ)を称(しょう)すべし。われまたかの摂取(せっしゅ)のなかにあれども、煩悩(ぼんのう)、眼(まなこ)を障(さ)へて見(み)たてまつらずといへども、大悲(だいひ)、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照(て)らしたまふ」(註釈版聖典207ページ)とお示しくださいました。
浄土真宗は自らが知恵をみがいて救われていく教えではありません。阿弥陀さまのお慈悲の世界を、ただ聞かせていただくばかりです。
「われにまかせよ、必ず救う。浄土に生まれさせ、仏にする」という阿弥陀さまのお慈悲を、そのまま受け取らせていただくのです。そして、日々のお念仏生活の中で、「阿弥陀さまがご一緒ですから、何の心配もございません」とよろこばせていただくばかりです。
罪を裁くのではなく
ちなみに、先の会話には続きがあります。私はN君にたずねました。
「ところで、キャンプはお母さんも一緒?」
「お母さんも、もちろん一緒!」
「そう、楽しみだね!」
「でもね、おじちゃん...」
N君は少し不満そうな顔で言いました。
「お母さんがぼくに〝兄弟げんかしたら置いて帰るからね〟って言ったんだよ。ひどくない?」
私は大笑いし、「いいお母さんだね! N君は幸せだね」と言いうと、N君は驚いた顔をしました。
「けんかをしたら置いて帰るよ!」
これも間違いなく、子に向けた親の言葉でしょう。親は子どもを甘やかすばかりではありません。大切なわが子なればこそ、きちんと悪いことは悪いと告げて知らせるのです。しかし、悪いことを裁くのではありません。それが親です。
もし、N君がキャンプで兄弟げんかをしたとしても、お母さんはN君を置いて帰ったりはしません。いかに兄弟げんかが親を悲しませるかを語って聞かせることでしょう。
阿弥陀さまもそうです。
「重い罪を犯すものは、この救いから除く」と阿弥陀さまはおっしゃいます。それは決して重い罪を犯す凡夫を裁かれるのではありません。阿弥陀さまは私たちに重い罪があることを知らせ、その重い罪を犯すような凡夫をまるごと救い取られるのです。その阿弥陀さまのお慈悲の心を「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」(摂(おさ)め取って捨てない)といいます。
人知れず流す私の涙の塩味までもご存じのお方、それが南無阿弥陀仏の阿弥陀さまです。その阿弥陀さまとご一緒の人生を歩ませていただくのです。
(本願寺新報 2022年11月10日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
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