「聴かせていただく」 -確かな依りどころを持つ人生-
能美 潤史
龍谷大学准教授 広島県北広島町・圓立寺衆徒

どういう意味なの
私の長女は5歳になりますが、少しでも疑問に思ったことは、迷わず妻か私に質問してきます。
「地球は何で丸いの?」
「ドレミファソラシドは誰が決めたの?」といった疑問をどんどん投げかけてくるので、親も必死に調べて質問に返答する日々です。
また、テレビや絵本などで知らない言葉に出くわすと、娘はすぐに言葉の意味を尋ねてきます。
数日前、娘から、「お金持ちってどういう意味?」と尋ねられたので、「お金をたくさん持っている人のことだよ」と答えました。すると娘から「それって楽しいの?」と質問され、思わず返答に窮(きゅう)してしまいました。
確かに、お金を多く持っていれば便利なことも多いでしょうし、楽しい場合もあるかもしれません。しかし、どれほど莫大(ばくだい)な富を得たとしても、残念ながら人生の苦しみが取り除かれるわけではありません。いや、むしろその富をどのように守っていくのかという新たな不安や苦しみが生じるかもしれません。そして、どれほど私たちが莫大な財産や知識を蓄えたとしても、大切な人と別れ、自分もまたこの世の命を終えていくという現実から逃れることはできません。
蓮如上人は、
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子(さいし)も財宝(ざいほう)も、わが身(み)にはひとつもあひそふことあるべからず。
(註釈版聖典・千100ページ)
と仰(おお)せになられました。どれほど財宝を持っていたとしても、死を迎える際、それらは全く当てにはなりません。
仏法に明日はない
さて、私は月に一度、広島市内で『歎異抄』の講座を担当させていただいています。先日、講座の参加者の皆さんとの懇親会がありました。
近くの席になった方々とお話ししていると、その中のおひとりが「十日ほど前に、夫が往生しまして」とおっしゃいました。
それを聞いて私は驚き、「そうですか、それは大変お寂しくなられましたね」と申しました。するとその方が寂しさをにじませながらも、「ご法義を聴(き)かせてもらっていて、本当によかった」とおっしゃいました。
浄土真宗とは、阿弥陀さまが南無阿弥陀仏のお念仏となって今ここに届いてくださり、「あなたを必ず浄土に生まれさせる」とよびかけてくださっているというご法義です。ご主人とのつらい別れであっても、「あの人はお浄土に生まれさせていただいたのだ。お浄土でまた会える」というように、かねて聴いてこられた浄土真宗のお念仏の救いを、その方はしみじみと喜んでおられました。
私であれば、自分の娘たちとの今生(こんじょう)の別れを想像するだけでも恐怖を感じるのが正直なところです。この方は、ご主人と過ごしてこられた長い年月や、心の準備もあったことと思いますが、大切な人との別れを通して、「聴かせてもらっていて本当によかった」とご法義を深くかみしめておられました。
そのお姿から、私たちの命は死んだら終わりではなく、お浄土に生まれさせていただく命なのだと聴かれた方の力強さを感じました。
蓮如上人は、
なきあとに
われをたづぬる人あらば
弥陀の浄土に
むまれたるといへ
(浄土真宗聖典全書5・千75ページ)
と詠(よ)んでおられます。
「弥陀の浄土にうまれたるといえ」という確信に満ちたお言葉から、この命の生まれゆくところはお浄土だと定まったお方の歩みの確かさが感じられます。
この人生において、財産や知識を蓄えていけば、もちろん役に立つことも多いでしょう。しかし、依りどころを持たない人生は、生まれてきた意味も知らず、大切な人との別れにただ涙し、自分の死が迫った時には焦りと恐怖の中でうろたえるしかありません。
蓮如上人は、
仏法には明日と申すこと あるまじく候(そうろ)ふ。
(註釈版聖典・千264ページ)
とお示しくださいました。
明日もその先もまだまだあると思いながら、死から目を背け、富や名声を求め続けるだけの生き方をしていると、人生の目的や命のゆくえを知ることはできません。しかし、お念仏のご法義を「聴かせていただく」ことで、生きている意味を知らされ、この人生がお浄土参りの人生として輝いていきます。
(本願寺新報 2022年12月01日号掲載)
本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より
※カット(え)の配置やふりがななど、WEBサイト用にレイアウトを変更しています。
※機種により表示が異なるおそれがある環境依存文字(一部の旧字や外字、特殊な記号)は、異体文字や類字または同意となる他の文字・記号で表記しております。
※本文、カット(え)の著作権は作者にあります。