読むお坊さんのお話

愚かであるからこそ-「正義」って恐ろしい...-

池信 秀見(いけのぶ しゅうけん)

山口県長門市・極楽寺住職

立ち戻る場所


 昔からそそっかしい私ですが、年齢を重ねるごとに物忘れがひどくなり、ますます、うっかりすることが増えました。どうしたものかと悩んだ結果、現実を受け容れることにしました。開き直るのではありません。それが私であり、そこが前提だと自覚したのです。すると仕事が早くなり、取り組みの質も上がってきたではありませんか。
 「今やらないと、忘れてしまう」と自覚するから、メモを取りすぐに取り掛かる。「大丈夫かな」という思いが、振り返りや確認へとつながる。何度も見直すから、さまざまな角度からの配慮や、より良くするための工夫も考えるようになったのです。
 以前は「後で大丈夫」という思いがありましたが、私には傲慢な考え方でした。それでも、うっかりはするのですが、そこは謝るしかありません。ムリな言い訳で取りつくろう必要もなくなりました。
 何より、「大丈夫」と思っていると、素直に聞くことができません。愚かだと思うからこそ聞く態度が育てられ、気づきや出会いも広がるのです。
 私はこの生き方を、愚者として人生を歩まれた親鸞聖人に学びました。聖人の歩みから、愚かさを受け容れることで見えてくるもの、賢さや正しさを誇るほどに見失うものがあると知らされたのです。
 もちろん、私が愚者を徹底できているかというと、そうではありません。しかし、立ち戻る場所があるから、我に返ることができる。これは、かなり大きなことだと思います。
 私たちの社会は、賢さや正しさを追い求めてきました。だから正しさはアピールしても、愚かさは受け容れ難い。そして、愚かさと向き合うことを「ネガティブ」「自虐的」、都合の良い面だけ見ることを「ポジティブ」「前向き」と言ってきたのかもしれません。
 しかし、都合の悪い部分から目をそらすことは、突かれると困る弱みを持ち、不安を抱えて生きることでもあります。逆に、愚かさも醜さもすべて含めた自分を丸ごと認めることができたら、本当の安心感の中で人生を歩めるのではないでしょうか。


正しさ求める社会


 正しさを求める社会で、愚かさと向き合うには勇気が必要です。でも、自分自身に毅然と向き合い、確かな足どりで人生を歩む人と出遇ったら、「私もそうありたい」と素直に思えてきます。「愚かでも大丈夫。いや愚かさを自覚するからこそ、見えてくるものがあるんだよ」と言ってくださる人がいるから、安心して自分に向き合える。私にとって親鸞聖人は、そんな方でした。
 そしてまた、聖人の歩みの確かさは、どんな私をも見捨てず、嫌わず、受け止めてくださる阿弥陀さまのはたらきに支えられたものだとも教えられるのです。


一回立ち止まる


 ところで私は最近、「正義」って怖いなぁと思うようになりました。「私は正しい」と思うほど、「悪」と認識する人に、いくらでも残酷なことができるからです。それはインターネットやSNSで、不祥事を起こした人に過剰な攻撃をする「炎上」という現象に表れています。
 「許せない!」と正義の怒りがエスカレートするほどに、「死ね」「殺す」という言葉が書き込まれていく。正義を掲げれば、何でも許されると思い込む。人を傷つけても気づかず、逆に被害者意識さえ振りかざす。戦争も同様です。正義のもとに侵攻し、自分の正しさを守ろうとするほど止まれない。
 「〝正〟という漢字は、〝一〟と〝止〟でできている。つまり〝正〟とは、一回止まるということだ」と受け止められた方がありました。立ち止まり、振り返るからこそ、自分も他者も見えてくる。聞くという態度も開かれる。大切なことだと思います。止まることを忘れた正義って怖ろしい...。
 実は私、とても正義感が強いのです。だから油断すると、正義の怒りが発動してしまいます。そんな私にとって、一回立ち止まらせてくださるはたらき、それが阿弥陀さまのよび声であるお念仏です。親鸞聖人が伝えてくださったお念仏が、私を愚者に立ち戻らせ、育ててくださるのです。何度でも、何度でも。
 しかし、それでもこの程度ですから、もしお念仏と出遇っていなかったらと思うと...、ゾっとする今日この頃です。 

(本願寺新報 2022年12月20日号掲載)

本願寺新報(毎月1、10、20発行・7/10、12/10号は休刊)に連載中の『みんなの法話』より

※カット(え)の配置やふりがななど、WEBサイト用にレイアウトを変更しています。

※機種により表示が異なるおそれがある環境依存文字(一部の旧字や外字、特殊な記号)は、異体文字や類字または同意となる他の文字・記号で表記しております。

※本文、カット(え)の著作権は作者にあります。

一覧にもどる